このところ腹立つ本ばかり読んでいるような気がする。この本も原発危機をきっかけにした専門家たちや評論家たちのあきれるような言説に腹が立ち、怒りのあまり周りが見えなくなって、例によって電車を乗り越した。「原発危機」と「東大話法」とあるが、著者も言うとおり、これは原発危機と東大の学者だけの問題ではない。この本に上げられている20の規則は日常的によく見かけることだし、自分も含め誰でもやってることがいくつもある。たとえば、
③都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事するとか、⑧自分を傍観者とみなし発言者を分類してレッテル貼りして解説するとか、⑪相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出すとか、⑮みせかけの自己批判によって誠実さを演出するとか。。。。
特に⑧の傍観者的態度、評論家的態度により⑫自分の議論を「公平」だとみせかけたがるのは、特に原発に限れば、賛成でも反対でもないというような人に限って、このやり方を使いそうだ。「傍観者というのは、事態に主体的に関わらないばかりではなく、主体的に関わっている人々を外部から眺めつつ、何ら感情を動かさない人物のことを言います。そのかわりに彼らは、主体的に関わっている人々を観察して分類したり解説するのです。」(p.138)一般の人ならそれでもかまいませんが(いや、本当はかまわなくないよ)、専門家がこれをやる場合は、おおむね責任逃れだと見て間違いない。なにか後ろ暗いところがあるに違いないでしょうね。
まあ、⑦「自分が立派な人だと思われることを言う」のは人間のサガってもんでござんすよ。また、テレビを見ていれば、原発関係以外でも、討論番組などでよくこういう人を目にするのではないだろうか?
④都合のよいことがないときは関係ない話をするとか、⑤うそでも自信満々で話すとか、⑥自分の問題を隠すために、同じような問題を持つ人を力いっぱい批判するとか、⑨「誤解を恐れずに言えば」と言ってうそをつくとか、⑩スケープゴートを侮辱することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせるとか、⑰ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて自分の言いたいところに突然落とすとか、
⑩の恫喝的なやり方は確かにこういう人っていますね。そして次の用法は政治家などの決まり文句だ。
⑳「もし○○であるとしたらお詫びします」と謝罪したフリをする
自分が立派だとかえらいと思われたいときには、往々にして人は上記のような言い方をするものだろう。でも、やっぱり一番問題なのは、著者が「立場主義」と言っている態度だろう。
①自分の信念より自分の立場にあわせて考え、発言する。
これをやられると、人間じゃなくなっちゃうからね。平気でうそをつくだろうしね。さらには責任も感じなくてすんじゃう。今回の原発の専門家たちだけじゃない、拙ブログで繰り返し書いてきた自立支援法がらみの厚労省のやり方なんか、まさにこれだろう。他にも昨今のえん罪事件だって検察の立場ってやつだろうし、
以前書いた役人の嘘だって、みんなそれぞれの立場がそうさせるんだろう。会社の一員としての立場、公務員としての立場、親の立場、校長の立場、教育委員長の立場、市長の立場、あるいは軍人の立場、将軍の立場、政治家の立場、立場によってしたことは個人に責任がないかのようだし、その立場に合わせて忠実に行動発言することが立派なことのように思われ、嘘をつかれても、相手の立場がそうさせているんだと妙な納得をしてしまう。
他にも経済学の特徴としてコストと利益にすべてを還元してしまうことを挙げて、そこに人間の持つ卑劣さをまったく考えに入れていないことを批判していますが、「卑怯かどうかは一切問題にせず、そういうことを言う人間は鼻先で笑い、すべてをコスト計算で踏み越えていく」のはまさに現代の資本原理主義、新自由主義、ネオコン批判に通じると思う。
ひとつだけ。第4章の「役」と「立場」の日本社会については、もう少し詳しく読んでみたい。これは結構大変な話になるのではないかという気もする。この「役」と「立場」に「世間」なんていう言葉も組み合わせていけるのではないだろうか?そんな予感がしている。
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