何年か前に靖国神社の遊就館を見に行ったことがあった。「欧米のアジア植民地化に抗して、やむを得ず立ち上がった皇軍がいかに勇猛果敢に敵を蹴散らし、いかに美しく散ったか」が展示されているわけである。正直に言って非常に居心地が悪かった。その居心地の悪さは、変なたとえだが、ケルンの大聖堂で、高価な宝石のちりばめられた聖遺物筺にはイタリアに侵略した際に戦利品として奪ってきた東方三博士の遺骨が納められている、と胸を張って説明している神父を見たときの感じに似ていた。
いずれにしても、その遊就館では決して見ることのできなかった「皇軍」兵士の日常生活を、資料を基にして描いたのがこの本である。資料を多用しているから数字も多く、はっきり言って非常に読みづらい。そもそも社会の価値観が現在とは全く違うし、システムとしても実感として想像できないものである。読みづらいのは当たり前だ。ただ、この著者の立ち位置はかなり明確で、この点は、倫理意識の乏しいオタク的知識を振り回している印象がぬぐえない武田知弘の「ヒトラーの経済政策」(祥伝社)とは決定的に違う。
徴兵制によって、今の軟弱な若者にカツを入れ、日本男児としての倫理意識を植え付けるとか、一種の「人生修練の道場」としての兵役観とか、最近多いのは、徴兵制や戦争が平等化をもたらすとして戦争を待ち望むなどという者もいるが、そうした余りに想像力の欠如したロマン主義的牧歌的な文言に、著者は最近はやりの格差社会という言葉で冷や水を浴びせる。
まずもって、軍隊は全くの格差社会であった。それは学歴によったり、職業によったり、同じ会社員でも大企業とその他では「手当」が大きく違っていたり、そしてなにより、世代によって大きな格差があったのである。愛国心と鬼畜米英に燃え、聖戦を信じて志願した陸海軍少年志願兵たちの末路は特に痛ましい。ある時期の少年飛行兵の死亡率は三分の二を越え、戦況が悪化すると1年程度の訓練で実戦に参加させられる無茶苦茶ぶり。さらに機材燃料不足になると今度は各種特攻要員になったという。そして戦死した後も、墓の大きさまで格差社会そのままの不平等ぶりである。
皇軍だの聖戦だの、大東亜共栄圏だの八紘一宇だのといった理想的文言が本気で信じられていたとは、はなから思えない。しかし、そうした観念ではなく、兵士同士がお互いに臆病でないことを監視し合うことによって軍隊の秩序が守られていたのだと筆者は繰り返し強調している。私の感覚では、わざわざこんなことを強調しなくても当たり前の話だと思うのだが、ひょっとして今の若い人たちには目新しいのだろうか?
さて、今の世の中、猫も杓子も大所高所からものを言いたがりすぎていやしないか?「戦争の時代を考えるとき一番大切なのは、その時自分だったらどうしたかを思うことではないだろうか。それができていない発言や思考法がいまの日本にはあまりにも多い」(p.272)という著者のまとめに強く同意する。そしてそうした想像力を働かせるための資料として、この本の価値がある。
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