つい読みふけっていて、2回も電車で乗り過ごし、さらに極めつけは下高井戸と下北沢を間違えて、危うく約束をふっとばしそうになった。周りのことを忘れるほどおもしろかったからではなく、周りのことを忘れるほど頭に血が上っていたんだろうね。
この本について前回書いたときは上巻の半分も読んでいない時だったけど、全部読んでみて、巨大な悪意というか、昔の手塚治虫の漫画に出てきそうな、いわばカリカチュアに過ぎなかったような金の亡者がぞろぞろと出てくる。ホント、漫画だろう?って突っ込みたくなるような話ばかり。
中南米から始まり、イギリス、ポーランド、ロシア、アメリカそのもの、そしてアジア、イラク、イスラエルと世界中で、新自由主義者(ネオコン)という金の亡者たちがグローバル化とやらを旗印に行った犯罪的所行の数々には、文字通り反吐が出る思い。ここに日本の話は出てこないが、こうした流れに乗って、昨今の格差社会、自己責任社会ができあがってしまったんだろう。
いずれにしても、この新自由主義が惨事に便乗して持ち込まれた国や地域では、どこも格差が著しく拡大したのである。この惨事に便乗してということだが、これが実に用意周到に策略が巡らされ、さらにそれはどんどんエスカレートしていき、恥知らずなものになっていく。出てくる新自由主義者たちはまさに金の亡者という言葉がぴったり。
たとえば一例を挙げると、第二次大戦時、ルーズヴェルト大統領は戦争で儲けるという行為を強く戒め、戦争という大惨事のおかげで金儲けするような人間がアメリカに一人でも生まれてはならないと言ったという。
しかし、現在、惨事便乗型資本家=新自由主義者たちは戦争や疫病、自然災害、資源不足という大災害が確実に自分たちの利益増につながると考えている。70年代のラテン・アメリカで行われたのは新自由主義という市場原理主義を導入するための、「手段」としてのクーデターや軍事介入だった。しかし、現代の市場原理主義者たちにとって、経済成長のためには戦争などの大災害が「目的」そのものになっているのである。
ノーベル賞学者(フリードマン)のお墨付きをもらった彼らは全く恥じることなく戦争成金になる。しかもそのやり方はマッチ・ポンプという言葉を思い起こさせるものである。紛争が起きれば兵器を売って利益を得るだけでなく、破壊された町の再建や、その武器で傷ついた人々の治療からも利益を得るというシステムができあがっているのである。
おぞましく希望もないグロテスクな話ばかりがつづき、こりゃあ、もう人類が破滅するのは致し方ないんだろう、と、僕の大嫌いなニヒリズムに陥りそうになったが、最後の最後に、最初に新自由主義のショック・ドクトリンを経験した中南米の現在の状況が少しだけ希望を与えてくれる。
ぼくの世代がリアルタイムで見聞きしてきた世界情勢の印象がまったく一変した。チェイニーやラムズフェルドも名前は知っていたが、こんな人たちだったとは知らなかった。ポーランドの連帯も、当時80年頃だったか、アンジェイ・ワイダの映画で知っていたが、その後の事情は知らなかった。ゴルバチョフがイェリツィンに変わったロシアの国会議事堂発砲事件も、当時の新聞では、ロシアの民主化を守った英雄イェリツィンという印象だった。とんでもなかった。南アフリカの反アパルトヘイトの象徴マンデラの名前は知っていたが、その後の事情については全く知らないことばかりだった。経済がこれほどまでに政治と結びついているとは思わなかった。現代史に対する見方が完璧に変わった。
良ければ、下のボタンを押してみてください。

にほんブログ村
- 関連記事
-
スポンサーサイト
trackbackURL:http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/tb.php/861-4b384886