なにか凶悪事件があると被害者に感情移入するのはあたりまえだろう。加害者(=犯人)に自分を重ね合わせる人はごく一部の特殊な状況にある人だけだ。たとえば自分と犯人の境遇が似ているとか。。。マスコミだって被害者に寄り添った記事を書くし、犯人側の情状を酌量すべき情報はあまり新聞には載らない。犯人は、まるで生まれたときから悪人だったかのような印象である。
ちょうど昨夜、撮り貯めておいた日本映画の「悪人」を見たところだった。(映画について一言だけ。深津絵里にぜんぶ喰われちまったけど、最初のほうに出てくる被害者の女の子も僕にはずいぶんと印象に残った。)この映画(原作のほうは読んでないので知らない)の表題とはうらはらに、いわゆる「悪人」なんていないんだ、っていうことがテーマなんだろうなと思った。いわゆる「悪人」になるかどうかっていうのは、柄本明が最後のほうで言う、「その人が笑っているのを思い浮かべるだけで、こちらもうれしくなるような大切な人」がいるか、いないかっていうことなのかもしれない。その意味では光市の犯人の少年にも、同じようなことが言えるのかもしれない。
光市の18歳の少年の死刑判決が確定した。これまでにも何度か書いたように、僕は死刑という制度に反対だ。
「死刑制度について」でも、安易に部外者のぼくらが死刑に賛成だとか反対だとか言えなくなるほど、被害者の夫にして父親の男性の言葉は重い。
「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、わたしの妻と娘、そして被告人も犬死にです」
死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会っていうのは、北風と太陽の話みたいだけど、権力が人々を管理し、押さえつけ、厳罰で脅して犯罪を起こさせないようにする社会じゃなく、みんなが安心して生活できる優しい社会の事じゃないだろうか?
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