話が濃過ぎて割り込めないねぇ…
ロードレースのカッコいい面、美しい面しか興味がない人が90%なんでしょう。
ドロだらけになってクロワ・ド・フェール峠を上るボベなんかどう見てもカッコよくないし美しくない。
イタリア人として初めてツールに優勝したボテッキアは、ブサイク系イタリア人で写真写りの悪い事、この上なし。
史上初めてマイヨージョーヌを着たクリストフは雪のミラノ~サンレモで凍死しそうになったなんて、今じゃ想像不可能。
こういうカッコ悪いところに興味を持つとロードレースの深み、フランス語の"Geants de la Route"の意味が分かってくるんです。
うん、ジャニーヌの解説、思い出した。Arturoさんから聞いてます。ピュイ・ド・ドームは先行したヒメネスとバーモンテス、さらにゴール前でアンクティルを抜くアドルニの三人は、全く蚊帳の外でした。レキップが出したCols Mythiques du Tour de Franceという大判の本にはこのときの様子がゴール6キロ前からゴールまで順番に写真にして30枚以上で、12ページにわたって出てます。そのうち写真とともに本文に書いてみましょう。
で、それはさておき、アンクティルの家系の件ですが,ご存知の通りこれは複雑です。しかし家系図は、文字通り図なので、文字で書くのは大変、と言う事でサボる事にします。
(又JPEGで送る!?。)
一つ言えるのは、アンクティル家にあって、ソフィーとクリストファーはジャックの子供、異母兄弟と言う事で。(和物ウイキペデリアではいつか見たら、子供なしとなっていた。ヤレヤレ、、、)
最初のカミさんはジャニーヌ。彼女は当時、単にブロンドの美人と言うだけでなく、自転車界のブリジット・バルドー(勿論現在のバルドーではなく当時の)と呼ばれていたようです。(勿論風貌もですよ。)ご指摘の通り、彼女は60年には既にジャックの奥さんだったようで、60年と言うと、もろ、60年、と言うエピソードがあるので、紹介します。
(「書いちゃダメよ。」にはもはや、抵触しない、お墨付きが得られた、と言う事で、”封印”をも解除します。)
僕にとっては、60年と言うと一つ氷解しないナゾがありました。(ひいては以下、唯一、彼女がもろ、このナゾに解答をくれた。となる訳ですが、、、。)
07年、例の、彼の没後20年の集まりの際、彼女と話すチャンスがありました。この機を逃さず、質問をした訳ですが、で、その僕の感じていたナゾですが、なぜアンクティルは60年のツールを不参加にしたのか?。です。これが簡単な決断でなかったのは想像が付きます。特に前年59年、初めてジロ&ツールの両方を走った訳で、かつ、その結果はジロ2位、ツール3位、とどちらも勝てなかった。(ちょっと91年のブーニョの状態と相似化出来るかも?!。ブーニョの場合、この後、完全に、もはやダブルツールと言う物は不可能だ。と言い切り、事実二度とダブルの挑戦はしなかったですよね。それどころか、インドゥライン・コンプレックスに陥った彼は、グランツールそのものを狙う事そのものを放棄した。とも言えますが、、、。)しかし、今回は違う。ネンチーニを下した後だった。ここでの参加もアリだったんじゃあ、、、と言う疑問もついて回りました。勿論、歴史は不参加の決断。そしてこれが彼に悲劇を招く。とまあ、この辺は書物で読んだ経緯があります。と同時に、やはり書物でも、『ジロを獲ったはいいが、ここで彼は難しい決断をディレクターである、ビドーに伝えなければならなかった、、、。と言う下りも読んだ記憶もありました。しかし最終的な結論の根源、と言うのを読んだ事が無かった。とまあ、この時点で、かなりフラストレーション状態。走っていたら、、、、と言う疑問は誰より彼自身が持っていたのでは!?。このツールを獲ったのは、先のジロで20何秒だかで、アンクティルが下した筈のネンチーニだった!。しかも、このトスカーナの男に、彼はフランスにあっては大将軍足る、ドゴール大統領の”謁見”のオマケまでつけられてしまった!。(この”謁見”はこの後、ミッテラン、シラク、そしてサルコジに至るまで、”踏襲”される事になる。あまり個人的に感心しませんけど、、。)一歩違っていたら、あそこで謁見されたのは彼だったのかも知れない!?。これは悲劇と言う言葉が形容される!?。(しかも、ドゴールは自身がアンクティルのファンだと公言してはばからなかった。彼が例のボルドーパリの時、ニームからボルドーへの移動で、専用機を貸したのはやはり、先のドキュメンタリーでも登場。しかも面白い演出で、名前をあえて視聴者にも言わず(勿論ミエミエ状態ですが、、。)、、、で。それはそれで、ドゴールに対する敬意を込めての演出!?。)。
極東の果ての人間に『性格が悪い」と形容されても、それは殆どカウントされるに足りないでしょうが、当時のフランスにあって、この大将軍、ドゴールにそう公言されると言う事がどういう意味を持つか?これは恐らくフランス人でなければ解らないかも!?。現代でも世代を超えて、『サルコジなんてのは、ドゴールの前では、全く比較対照にならない。勿論、シラクもミッテランもだ。」と言うセリフを何度も聞きましたが、、、。彼は大統領に就任後も畏敬の念を込めて、プレジダンではなく、General、de Gaulle(ドゴール将軍)と呼ばれていました。現代でも。通りの名前でも”Rue General de Gaulle”と書いてありますけど、、、。President De Gaulleと言うのは・見た記憶がない!?。
アンクティルがここで覚えた”コンプレックス”はレジョンドヌールをこのドゴールの手から受け取るまでは、消えなかったんじゃあ、等と勝手に想像しています。