昨夜、昼間録画しておいたフェリーニの「道」を久しぶりに見直しました。ぼくでさえ生まれる前の映画です。前回見たのは20年ぐらい前かなぁ。最初に見たのは、たぶん30年以上前、NHKでノーカット字幕スーパーの名画劇場だったと思う。もしかしたら、それより前に親と一緒にTVで観ているような気もするけど、もし仮に観ていたとしても、よくわかんなかっただろうなぁ。(以下、ネタバレしてますので要注意)
そうそう、イタリア語は全然わかんないけど、当時、「エリヴァート、ザンパノ(ザンパノが来たよ)」っていう文句を映画好きの友人達と言い合って、盛り上がったっけ。以前見たときはジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ、フェリーニの伴侶ですね)の哀れっぽさ、寄る辺なさが、なんとも辛く、捨てられた子犬みたいだと思ったんだった。でも、ダウン症の次女がいる今見直してみると、軽度知的障害のジェルソミーナの姿は、実は哀れでも寄る辺ないわけでもない!って思いたくなる。
映画のキーは途中ザンパノ(アンソニー・クイン)の不倶戴天の敵の綱渡り芸人(リチャード・ベイスハート)がジェルソミーナに言う「この世の中で役に立たないものなんてないんだ、あの星だって、この石だってなにかの役に立っているんだ」っていう台詞だろう。無力で何もできず、最後にはザンパノが犯した殺人のショックで少しおかしくなってしまい、ザンパノに棄てられて死ぬジェルソミーナだが、最後、彼女の死を知ったザンパノは、夜の海辺で天を見上げ、そして砂浜に突っ伏してもだえながら号泣する。なにも役に立たなかった彼女は粗野な悪党のザンパノを改悛させる役に立ったわけである。
さあ、ここからおなじみの牽強付会 笑)
なんか20代の頃夢中で読み、一瞬だけど、教会へ行ってみようかとすら思わされた遠藤周作のことを思い出したわけ。遠藤周作は、無力な、何もできないイエス(聖書に書いてある奇跡なんか遠藤は信じないわけ)に従いながら、その死の時には逃げたり、弟子であることを否認した弟子達が、その後なぜ死すら恐れぬ強い人間になったのか、ということにこだわり、そこにキリスト教を信じる根拠を見いだす。
その遠藤に「わたしが棄てた女」っていうのがある。今ちょっと検索したら、ホントに原作読んだかなぁ、って気がしてきたけど、映画になっていて、そちらは観て感動した記憶がある。だけど、DVDになってないようだ。それと原作とはだいぶ違うみたい。
映画をもとにするけど、主人公は河原崎長一郎で、どうしようもない甘ったれ男。それをそのまますくい取ってくれるのが、以前主人公が棄てた女。ところが、この女(小林トシ江)が魅力も金も運も何もない、ただただ優しいだけの女なのだ。最後この女は死に、残された河原崎と妻の朝丘ルリ子は、彼女の死を一生考えていかなければならない。つまりこの女と主人公達の関係は、遠藤が主張するイエスと弟子達の関係と符合するのである。なにもできない無力なイエスというのは「死海のほとり」でもテーマになっていて、キリスト教とは別にこの小説もおすすめです。ただ、ホントにキリスト教の範囲で遠藤のことを知りたければ「イエスの生涯」と「キリストの誕生」でしょうけど。。。
さて、「道」だ。上述のごとく、最後、夜の海辺でザンパノが号泣するシーンで映画は終わる。映画はここで終わりである。しかし、間違っちゃいけないのは人生は映画じゃないからね。ホントにザンパノがいれば、ひと泣きした後、また以前のような生活を続けていくのかもしれない。遠藤が主張するイエスの弟子達の劇的な改心って、そう簡単に起こるものじゃない。残念だけど、人間はそう簡単に変われない。
今回観て、風景が流れていくシーンが、ニーノ・ロータの音楽とともに非常に抒情的に繰り返されることに気づいた。だいたいフェリーニの映画って別れていくシーンが印象に残るんだけど、ここでもジェルソミーナをおいていくシーン、すやすやと寝ているジェルソミーナの姿がどんどん小さくなっていくシーンは、なんとも言えない哀しさをたたえている。不思議だね、ただ去っていく馬車の中から観ているだけの画面なんだけど。。。
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