年末忙しくって、だいぶ話題としては時間的にずれてしまったけど、やっぱり書いておこう。自公すらもやらなかったような暴挙。年末年始のこの忙しい時期を狙って、武器輸出禁止を緩和だって?そのうち日本製の武器で、どこかの誰かが死ぬかもしれない。
でも、それで死ぬのが身近な人間でなければ、自分ちは大丈夫、ってほっと一安心して忘れてしまう。原発だって同じだ。昨日アップした「ブリューゲル」と同じ。我が身に降りかからなければ無関心。そういえば、ブリューゲルの「死の勝利」でも、死に神から逃げ惑う人々の中、右下には、全くそうした情景に無関心のまま、音楽にうつつを抜かす恋人同士も描かれていたっけ。
それはともかく、結局こうして自ら挙げた公約を次々に破り、とんでもないことをしでかした民主党の罪は重い。このまま民主党が政権を取り続けたら、9条も変えられてしまうかもしれないとすら思えるほど。さらにこうした一連の愚行により政治不信を引き起こし、人々を政治に対するシニシズムへ落ち込ませた。しかし、よく考えてみよう。国民の政治や政治家に対する不信感やシニシズムは、政治家をはじめ、権力者にとっては好都合なんだろう。そういう意味で、政治に対する不信感や冷笑や無関心は、僕ら自身の首を絞めることにつながるのだ、ってことをしっかり自覚しよう。
確かに、自公政権が潰えたとき、ぼくは快哉を叫んだ。これで弱肉強食の拝金主義から日本は変わると単純に思った。拙ブログでも何度も繰り返したように、その期待は徐々に失望へ変化し、「革命は横領された」という気持ちが強くなった。しかし、事態は横領どころではない。革命が横暴な皇帝を打ち倒したと思ったら、以前となんらかわらない、場合によってはもっと悪い暴君が現れたようなものだ。だけど、ここでただ政治から目を背けたら、上に書いたように、この国はどんどん悪くなっていくだろう。
やっぱり拙ブログではこれでたぶん10回ぐらいコピペしている文言を、年始にあたり、またコピペしておこう。
社会は強い者がより強くなるように、富める者がより富むように、力をかざす者がより強い力をかざすことができるように、そのようなことのためにあるのではありません。弱い人間を排除する社会は、私たちに必要な社会ではありません。弱い人間のためにこそ社会はあります。私たちは、そうでないときにはそうであるように社会を変えてゆかなければなりません。(八尋 光秀)
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