1,2ヶ月前、友人が読んでいると知らせてくれたので、気になっていた本。
電車の中で読んでいて涙が止まらなくなり、困ったことは確か。ただ、泣かせようとしているのが結構露骨にわかる。金髪の若者の号泣とか、知的障害の妹の「お兄様が大好き」なんて台詞は、こんちくしょう、と思いながらも涙が止まらなくなった。でも、ちょっとその点は「さもしい」と思う。そんなことを言いながら、それでも泣いてる自分が馬鹿みたいだが。。。話は最後にバタバタといろんな関連がつくようになっているが、まあ、無理があると言えば無理があるけど、エンターテイメントってこういうものなのでしょう。
それと、この小説には、あまりに説明的という欠点がある。主人公の宮部久蔵を狂言回しにした太平洋戦争と零戦の歴史という感じもした。章ごとに次々と現れる零戦に関わった(宮部久蔵に関わった)老人たちの話はあまりに説明過多であるとともに、結構有名な話も多い。坂井三郎の「大空のサムライ」だけでも読んだ者にとっては、知っている話が次々でてくる。
また、特攻はテロだと言う若い新聞記者が出てきて、しかもこの説がキーになっていたりするが、なんていうか、こんなことを言う奴いないだろう、ってちょっと白けた。これって、何も知らない人たちに対する作者のサービス精神の現れなんだろうか?
ただ、感動して、変な方向へ向かいたがる人もいることだろう。現在の日本の批判も、ジャーナリズム批判も、戦後社会批判も、どれもいいけどさ、でも一番批判すべきは、この小説の中で登場人物の何人かの老人が思わず激高して口走る参謀をはじめとした上層部への批判だろう。
自分は責任を取らずほっかぶりした参謀たちの姿に、現代の自己責任と言いつのりながら、みずからの責任は取ろうとしない者たちへの怒りを重ねていくべきである。怒りの矛先の方向を間違えると、偏狭なナショナリズムとかへ向かっちゃいそうな不安もある。
神風については
以前紹介したこの本が詳しい。
ただ、神風だけではなく、さいきん話題になった加藤陽子の「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」にはこんな事も書かれている。
「44年から敗戦までの1年半の間に、9割の戦死者を出して、そしてその9割の戦死者は、遠い戦場で亡くなったわけですね。日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国でした。この感覚は、現代の我々からすれば、ほとんど理解しがたい慰霊についての考え方であります。」(p.390)
もう、負けが明らかな状態になってからも国民に無駄死にを強い、しかも戦後もその死を慰霊することすらできなくする。このための方便として靖国神社があるんだろうけど、現時点ではその政治性の強さに、そこに天皇がくることはない。本来、建前としては(本音はそんなはずないけど)兵士たちは天皇のために死んだはずなのに。そういう兵士やその家族の立ち位置から、戦争というものを考えるべきだろうと思う。
ついでにこの本にあったほかの印象的な部分。満州への移民と引き上げに関連してだが。
「満州からの引き揚げといったとき、我々はすぐに、ソ連軍侵攻の苛酷さ、開拓移民に通告することなく撤退した関東軍を批判しがちなのですが、その前に思いださなければならないことは、分村移民をすすめる際に国や県がなにをしたかということです。」(p.396)
つまり、国はある村がぜんたいで満州へ移民すれば、特別助成金を出すという政策をだし、助成金をもらわなければ経営が苦しい村がそれに応じて、結果、引き揚げで多くの犠牲者を出している。結局、特攻隊に見られるように、兵隊ですら大事にしない国が、兵隊ならぬ開拓民を大切にするはずはなく、さらに、そのような傾向は戦後65年以上経ってもまったく同じなのは、いまのフクシマを見ればはっきりしている。助成金も、沖縄に米軍基地を押しつけ、過疎地に原発を押しつけてきたこの国のやり方は、戦前から敗戦を経てもなんにも変わってこなかったと言うことだ。
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