
明治時代の死刑囚100人以上に教誨し、彼らの記録を残し「死刑すべからく廃すべし」と主張した田中一雄という教誨師の話である。彼は場合によっては刑死した者の墓の面倒まで見た。ただし、写真一枚残っていないし、それどころか、生まれた年も生い立ちも、家族や子供がいたのかも、いつ死んだのか、墓はどこにあるのかすら、なにもわからない。
第一章は田中が記録した個々の事例を紹介している。死刑囚はそのほとんどが田中の教誨を受け入れる。「逃走の恐れある者にはあらず(。。。)十分悔悟の念ある者(。。。)について死刑の要は少しも認めざるなり」というのが田中の死刑否定の根拠である。僕自身はこの根拠はちょっと弱い気がする。実際田中自身も、ただ一回だけだが、悔悛せず繰り返し脱獄を図った死刑囚については、「死刑の必要は斯くの如き者あるを以てなるべし」(p.55) と書く。
それは第二章で扱われ、田中も教誨師として関わった「大逆事件」に関しての、田中の奇妙な沈黙につながる。死刑には反対だが、場合によっては、つまり、明治憲法に定められていたような天皇を殺そうと図るような者に対しては、死刑も致し方ないという考えにつながってしまう。(むろん「大逆事件」の24人のうち、誰一人として天皇暗殺を企てた者はいないことは言うまでもない)
田中が「大逆事件」の被告たちを、本心ではどう考えていたかわからない。「死刑すべからず廃すべし」と主張しながらも、明治という時代の制約が見られるのかもしれないし、著者が「期待値の高い読み」として、田中はここで「国の死刑制度を否定しただけでなく、明治国家の本質を見た」のかもしれない。(p.126-7)
本の後半は田中の死刑囚の記録を預かり、関東大震災時にもそれを守った「出獄人保護事業に生涯を捧げてきた原胤昭」(この人はウィキペディアにも載っている)や、明治にすでに死刑廃止論を唱えた多くの人々を紹介しながら、田中の生涯を、細切れの糸を手繰り寄せるように想像していく。しかし、明治時代に、すでに死刑廃止を唱えた人たちがたくさんいたことにも驚いた。
田中は「大逆事件」で刑死した管野スガの残した手記により、自ら、元会津藩士で、死刑になるところをすんでのところで助かったと述べたらしい。そして、さまざまな資料から、戊辰戦争のころ、会津藩士に偽金札作りで死刑になるところを逃げた同名の人物がいることがわかるのだが。。。むろんその人物が若き日の田中一雄だったのかどうかはわからないままだけど、
先日も引用したジョージ・エリオットという19世紀イギリスの女流小説家の言葉を思った。
「歴史に残らないような行為が世の中の善を作っていく。名もなき生涯を送り、今は訪れる人もない墓に眠る人々のお陰で、物事がさほど悪くはならないのだ」。
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前から書いていることだけど、被害者やその家族が加害者を殺してやりたいと思うのは当たり前である。しかし、事件とまるで無関係の人までが、誰かを「殺してやりたい」と思うのは、よく考えてみれば異常なことではないだろうか? だけど、今の世の中では死刑制度賛成が80%以上だという。
維新のようなトンデモ政党が人気があるのも、そうした風潮と無関係ではないんだろうと思う。
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