放駒親方、矢面に立ってお気の毒です。ただなぁ、個人的には相撲で八百長がないなんてあり得ないと思ってましたからね。あんな巨体でマトモにぶつかればもっと怪我するでしょう。だから、私の感覚では相撲はスポーツではなくイベントですね。もっとも相撲もまったく見なくなりましたが。。。見なくなったのは、以前ボクシングの大場の話を書いたときにも触れましたが、格闘技好きの祖母がいなくなった頃からですかね。そして、完全に見限ったのは貴乃花対武蔵丸で足を痛めた貴乃花が阿修羅の形相で優勝して、小泉が感動したって言って、場内が大声援に包まれたあのとき。僕は、昨日触れた映画「キャバレー」のなかの苦々しげにそっぽをむいたあの老人状態でしたっけ。そもそも、相手が怪我している状態で相撲を取らされる武蔵丸が、どんな気持ちだったか。。。こんなの、ちょっとでもスポーツをしたことのある人間ならすぐ想像できるはずですよ。あの相撲が八百長だったとは決して思わないけど、武蔵丸が本気になれなかったことだけは確かなことでしょう。
まあ、話はもっとずっとさかのぼって、ぼくは高校1年でしたか。。。ネットで資料を見ると、1972年の3月場所ですね。12勝3敗同士で現放駒親方の魁傑と長谷川が平幕同士で並んだんですね。相撲は別に毎日見ていたわけではなかったし、あまり興味もなかったんですが、これもやっぱり祖母の部屋で見ていたと思います。魁傑はその後大関になり、怪我で大関を陥落したのにまた返り咲き、再び怪我で陥落したら、またまた返り咲いたという相撲取りでした。あまり闘志を前面に出さないタイプで、顔もあまり相撲取りらしくない顔をしてましたね。たしか柔道選手だったんだと思います。足が長くて色黒で、どちらかというとひょろっとした感じで、かといって後の千代の富士みたいに、ヲイヲイ、筋肉増強剤使ってんじゃねえの、っていうような筋肉質でもなく、なんか腰の高い相撲取りでした。
対する長谷川の方は、色白で闘志を比較的前面に出すタイプだったんじゃないかなぁ。印象的だったのは当時の横綱北の富士と対戦すると、必ず両者長いにらみ合いをしたんですね。それが手をついたときではなく、立ち上がったときにお互いに中央へ一歩進んで、近くまで寄って、土俵中央で両者ともにまったく動かないままにらみ合いを、長いときにはそれこそ20秒ぐらいにらみ合っていたんじゃないでしょうか。北の富士の方は険しい顔をして、一方の長谷川は口元を歪めて、ちょっと笑いそうな顔をしてましたっけ。だからこの両者の相撲はちょくちょく時間いっぱいになる前に立ち上がってました。長谷川も後に大関になったと思います。そのぐらい強かったですけど、北の富士はなにしろ横綱でしたから、分はたぶん7,3ぐらいで北の富士だったんだろうと思います。
さて、この1972年の3月場所。あれ?今この数字を書いて気がつきましたが、ひょっとして連合赤軍事件の直後でしょうか?うーん、そんな時代だったんだぁ。あらためて、さて、千秋楽に同率で優勝決定戦になったんですね。そして長い相撲になりました。それまであまり相撲を真剣に見たことがなかったんですが、このときは記憶にある限り、初めて真剣に見ましたね。そして、子供でしたから足の長い魁傑を応援しました。この相撲は水入り直前で長谷川が勝って優勝を決めたんですが、このときのハラハラ感から、この後しばらく相撲をよく見るようになりました。この少し後に北の湖が出てくるんですね。何しろこれが憎々しい相撲取りで、なにしろ強い。勝った後も絶対に相手を起こしてやったりしない。くるりと背を向けてさっさと自分の位置へもどっちゃう。まあ、なんて憎らしいと思ってましたね。その後も旭国とか、もう亡くなったと思いますがクラシック音楽が好きだという栃赤城なんていう茶目っ気のあるお相撲さんも好きでしたねぇ。
まあ、でも当時から八百長はあったんでしょうね。まだ相撲取りの体格がいまほど大きくなかった戦前とかなら怪我もそんなにしなかったでしょうけど、今は自分の体重で体のあちこちが痛むし、そりゃあ手を抜かないと壊れちゃいますよね。と、わたしは多少八百長には寛大です。すでにほとんど関心もなくなっちゃったし、もともと相撲はスポーツだなんて思ってませんからね 笑)
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