13日の朝日の夕刊に「昭和史再訪」というものがある。今回のテーマは特攻攻撃開始とある。神風特攻隊の無意味さについて、古処誠二の「敵影」の中にこんな文章がある。「特攻など、どこの国の軍隊が正式化できる戦法だろう。これは(若者の)死を受け入れる心と、その心に甘える(年寄りの)卑しさがなければ成立しえない」(括弧内はわたしの補足)。
ひとりの戦闘機乗りを養成するのに、どれだけの時間や経験が必要だったことだろう。それを、確率が数パーセントの戦法で無駄死にさせたのである。この作戦を考え出した「年寄りの卑しさ」にはあきれる。1,2年ほど前にNHKの番組で知ったことだが、陸軍の特攻用に使われた戦闘機は300キロを越えると空中分解したという。しかし300キロを越えなければ、対空放火の雨の中、撃墜されるのを免れられなかったという。撃墜されるにせよ、敵艦に体当たり成功するにせよ、どうせ無に帰す飛行機だ、ボロでかまわない。これが上層部の本音だったという。上記の記事によると、特攻戦死者(飛行機だけ)の数は4000人前後。
さて、ところで、上記の記事の中で気になったところを以下に引用する。
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(特攻を)発令したのは大西瀧次郎海軍中将だった。それまでの2年間余りの太平洋での先頭で、日本軍は米軍に押され続け、日本軍は米軍に押され続け、兵員や兵器の損失は大きかった。大西中将は「もう戦争を続けるべきではない」と考えていたという。講和交渉に持ち込むための最後の切り札として、軍内部で研究されていた特攻を決断したようだ(『戦史叢書・海軍捷号作戦』)。
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ぼくはむろんこのテーマについて専門家でもないし、たくさん本を読んでいるわけでもない。だが、半藤一利と保阪正康の「昭和の名将と愚将」には「特攻作戦生みの親大西瀧次郎の神話」という表題で、いくつかの疑問点を提示しながら、二人が次のように話している。
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保阪 これは大西が「特攻の生みの親」だという神話をつくるための、作り話ではないでしょうか。
半藤 神話をつくるために、海軍は”つくりもの”をしたか―。答えはイエスです。
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そして、特攻を言い出した責任者として暗に源田実の名前を挙げている。大西は敗戦とともに腹を切って死んでしまったので、死人に口なしで、彼にすべての責任がおっかぶせられてしまったというのである。
くりかえすが、ぼくはこのテーマについて詳しいわけではない。しかし、これだけ疑義が出されている大西責任説を安易に新聞という多くの人々が読むものに書いて良いのだろうか。確かに記事では「発令」という言葉を使い、直接責任者として大西を名指しているわけではない。また「軍内部で研究されていた特攻を決断した」として、考え出した責任者は曖昧にしている。だが、「決断した」のは大西だとしているわけで、誰が読んでも大西が特攻作戦の責任者だと読めるのではないか?
半藤と保阪の本を読むかぎり、本当の責任を取るべき愚将たちが、戦後もおめおめと生きながらえ、さらには源田もそうだが、そういう連中の何人かは政治家になって威張っていたわけで、はらわた煮えくりかえる思いである。
( 源田実が立候補したときのポスターは何となく覚えている。零戦の源田というような売り方をしていた。何も知らない子供だったぼくは男の子として当然のごとく、へぇ、かっこいいなぁと思った(と思う)。 )
上記の半藤と保阪の本で「特攻をきれいごとにするな」として、次のように書かれている。
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半藤 組織が非情にもそういうことを計画して、九死に一生じゃなくて十死ゼロ生の作戦を遂行したと。責任のとれないことを命令したと。本当は、このことはもっともっと問われなくてはならないのです。
保阪 僕は「特攻」というのは文化に対する挑戦だと思っています。あの時代の指導者の、文化に対する無礼きわまりない挑戦だったと。
半藤 「特攻」に対する考察がし尽くされぬままなら、日本人は軍隊なんかつくっちゃいかんと思いますよ。
保阪 そうだと思います。これをきちんと総括できないと、それこそ「特攻」で死んだ人たちに申し開きができません。(。。。)犬死にではない、しかし英雄でもない、我々は感情的になってはいけない。
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死んだ若者が蛍になって帰ってくるなんていう映画で涙して終わりにしてはいかん(しかしありゃひでえ映画だったな)。不謹慎な言い方だが、死んだ若者たちは無責任な責任者たちに化けて出てくるべきだったのだ。
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