1929年から1939年、第二次大戦が始まる直前まで、ミュンヘンのヒトラーの住んでいたアパートの向かいに住んでいた少年の回想という形をとったドキュメンタリー/小説。
1929年は世界的大恐慌の時代。ドイツも御多分に洩れず破産者や失業者が溢れかえるが、主人公は、裕福なユダヤ人の編集者の父を持つ5歳の少年である。著名な作家レオン・フォイヒトヴァンガーを叔父に持ち、自分のお世話係の娘がいて、ピアノを習い、クラスの友人からは誕生日に招待されたり、別荘で過ごしたりしている幸せな少年。
その少年を2012年94歳の時点でフランス人ジャーナリストがインタビューし、それに基づいて書かれたのがこの本である。当時5歳から15歳までの時代のことだから、この本に書かれているほど明確な記憶があったとは思えないので、当時の歴史的な出来事についてはかなり補われているのだろう。そういう意味で純粋なドキュメンタリーとは言えないかな。
1933年にヒトラーが首相になり、国会議事堂が放火されて、前回も書いた全権委任法(ヒトラーに全権力を委任する法律)が成立する。共産党員は逮捕され、ユダヤ人はどんどん肩身の狭い状況になり、ヒトラーの地位が安泰となったところで、ナチスのチンピラ組織の突撃隊が粛清される。1935年にはユダヤ人の定義をきめ、公職からユダヤ人を排除したり、ユダヤ人の元でドイツ人が働くことを禁じるニュルンベルク法ができる。
こうした時代の変化の中で、少年はクラスでは存在しないもののように無視されるようになっていく。
うーん、読みながら今の日本のことを連想した。なんというか、みんなおかしいと思っているはずなのに、なんとなく流されていく時代の流れ。みんながヒトラー万歳だったわけではないのに、みんながユダヤ人を嫌っていたわけではないのに、なんとなくその時代の流れに押し流されざるを得ず、ユダヤ人との付き合いをやめていく。
先日も山本太郎の記者会見の時に書いたように、ヒトラーが首相になった時のナチスの得票率は33%で、議席数は195、6だった。それに対して共産党と社民党を合わせると220を超えた。もちろん上記のように国会議事堂の放火というナチスにとってまたとない好機を利用して独裁へ繋げていったわけだけど、でも、やっぱり1/3の支持率で独裁が可能になったのは、最も民主的と言われたワイマール憲法に緊急事態条項にあたるものがあったからだ。
また、この本でも最初の方ででてきたけど、南ドイツのミュンヘンでは最初からものすごいヒトラー人気だったようだけど、北東の首都ベルリンへ行くと、最初の頃はまだユダヤ人に対する露骨な差別もなく、ナチスも大手を振って威張り散らしていたわけではない。つまり、ナチスも
最初は南ドイツの地方政党だったわけだ。
そして一般の人たちの間にも、別段強い反ユダヤ意識があったわけではなかった。つまり、ヒトラーはユダヤ人(当時のドイツでは2%弱)を仮想敵にして、共産主義者はユダヤ人だ、第一次大戦で反乱を起こして敗戦をもたらしたのはユダヤ人だ、ワイマール共和国を率いてドイツを混乱させたのはユダヤ人だ、と
少数派の人々をバッシングをし、
独裁こそ決められる政治だを旗印に、
マスメディアを最大限利用して宣伝工作で人々の耳目を集めて、多少の
嘘があろうが
法律に触れようが、
無名よりは悪名の方が良いとばかりに名を上げていった。
むろんその後の失業者の激減を喧伝することによって、ナチスは勢力を伸ばしていく。ちなみにヒトラーの経済政策を誉める人がいるけど、失業者の数が減ったことには数字のトリックがあるというのが最近の研究の成果だそうだ。だから、実際は
「やってる感」をアピールして人気取りに使っていたわけだ。
アンダーラインを引いたところだけでも、どっかと似てるよねぇ 笑)
時代の流れは個人ではどうやっても押しとどめることはできない。当たり前のことだけど、なんとも恐ろしい気持ちで読んだ。
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