
アマゾンプライムで見ました。この映画、途中で見るのをやめる人もいるでしょうけど、この映画を忘れられなくなる人もきっといるでしょう。わたし? もちろん。。。苦笑)
今回も多少ネタバレしてますが、アマゾンプライムの説明ではすでに「ほとんどの人々が消えていく中、遂に(主人公の)ターニャは(アンドロイドの)レオナに見守られながら最期の時をむかえることになる」とあるし、そもそも題名が題名だし、ネタバレに怒る人は、たぶん途中で見るのをやめる人でしょう 笑)
近未来の話。いくつもの原発が爆発して日本は住めなくなっている。人々は順次受け入れてくれる海外へ難民となって出ていくことになっていて、現時点では第七次の海外移住を許可された人が発表されている。この順番は政府が発表するもので、どういう基準かははっきりしないが、貧乏人や前科のある者、一人暮らしの者などは後回しにされているのではないかと、人々はうすうす感じている。
主人公は10歳の時に両親と共に南アフリカから難民としてやってきた30代(?)の白人女性ターニャで、両親はすでになく自らも病気に苦しみながら、身辺の世話をしてくれるアンドロイドのレオナを話し相手に人里離れた一軒家に住んでいる。そんな彼女を心配してくれる友人のバツイチ女性の佐野さん(知らない女優だけどこれがとてもいい)と、恋人の在日韓国人のサトシが時々彼女を訪ねてくれる。説ブログとしては、サトシが人のいなくなった街のことを語る回想シーンでリカンベント(寝そべるように乗る自転車)に乗っているっていうのもポイントが高くなるところ 笑)
この映画はアンドロイドが出演したことで有名になったようだけど、途中ほとんどそれはどうでも良いことのように思われた。ただ、ラストのシーンではこのアンドロイドに泣かされる。
映画全体が、ターニャの住む家の窓辺に置かれたソファ、その窓から見える荒涼としたセピア色の風景、動きの少ない長回しのシーンと自然の音を強調していて寂しい雰囲気だし、ボソボソとモノローグのようなセリフが語られ、ときどきアルヴォ・ペルトを意識したような(一瞬ペルトの音楽かと思った)悲痛な音楽が流れる。
放射能に汚染された土地で、ターニャは病気もあってまもなく自分は死ぬということを知っている。佐野さんもサトシもいなくなり、避難も拒否した絶望的な状況の中、アンドロイドのレオナは日本語、フランス語、ドイツ語の詩をターニャに読んで聞かせる。この設定がとてもいいとおもうけど、途中の詩を読むシーンがそれほど多くのないのが残念。もっといろんな詩を読んでほしかった。
でも、最期の方で、瀕死のターニャに詩を聞かせるシーンがある。このシーンは画面が歪んで、ジャンプカットも交えながら、すでにあの世の世界なのではないかとおもわせる痛ましさがある。ヴィム・ベンダースの「ベルリン 天使の詩」でも、事故で瀕死の男が周囲の人に対する悪態や後悔を考えているところへ、天使が頭をゴッツンコすると、男の独白が詩句の断片のような美しい言葉だけになるシーンがあるけど、僕もその時が来たら、ぜひ天使に頭ゴッツンコをしてほしいと思う。
その後、ラストへ向かう窓辺のソファーで裸で横たわるシーンは、色調も構図もワイエスのヘルガの絵のようで、窓からの風でレースのカーテンが揺れるところなども、おそらくワイエスの絵を意識しているんだろう。とても美しいシーンだった。
「被害者かどうかということなら、被害者だと思います、でもだから加害者じゃないかどうかは、すいません、こたえられません。」
これはアンドロイドが発するもので、ターニャが難民となった理由として南アフリカでの逆差別と白人虐殺があったと語るシーンでのもの。それを聞いた恋人の在日韓国人のサトシが、それって本当なの?といいながら気を悪くして帰った後に、南アフリカでの白人であった自分たちは被害者だったのかと問われてアンドロイドはこう答える。
これは最近流行りの歴史相対主義で、だから在日韓国人のサトシは気を悪くしたのだろう。だけど、このセリフは差別のことだけでなく、原発そのものに対する日本人への言葉としても当てはまるのかもしれない。
***追記 2021,4/26, 12:30
うーん、見てから3日経ってるんですが、ときどきふと思い出しています。けっこう忘れられない映画の一つになってるかも。。。
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