
前にも書いたように、このところYouTubeでサイレント映画の名作をいくつも見ています。1903年の世界初の西部劇映画「大列車強盗」、1913年の最初の怪奇劇映画「プラハの大学生」などはクローズアップもないし、カメラもほとんど動かないし、ある意味では壮大な舞台での演劇の延長みたいな感じがしますが(とは言っても「プラハの大学生」はドッペルゲンガーの話で二重露出で演劇ではできないようなことをやってますが)、1916年の「イントレランス」になるとかなり複雑なストーリーと場面転換が繰り返され、現在リメイクしてもあまり変わらないものができるだろうと思えるぐらいレベルが高いです。先に書いた
「霊魂の不滅」や
「死滅の谷」も今見ても十分感動します。初期の映画っていうのは結局演劇ではできないことを常に探していたんでしょうね。
だから、サイレント映画を見るというのは、こちらの集中力も要求されます。受動的にぼんやり見ていてもよくわからなくなります。そういう意味ではそれなりの覚悟で見ないといけません 苦笑)
さて、数日前に見たのは1924年のドイツサイレント映画の傑作とされる「最後の人」。主演はエーミール・ヤニングスという戦前の名優、というか戦前のドイツで一番有名な俳優かもしれません。通常はマレーネ・ディートリヒ主演の「嘆きの天使」でディートリヒに翻弄される高校教師ウンラート教授をやった人です。また、アメリカに渡って、第一回アカデミー賞の主演男優賞を取っています。ただ、なにしろこの時代の人ですから、ナチ政権下では積極的に宣伝映画に出演して終戦後は否ナチ化の影響で映画に出ることはなくなり失意のうちに65歳で亡くなります。
お話はベルリンの高級ホテルで、金ピカモールの立派な制服を着たドアマンが、年齢による衰えからトイレの番人に配置換えされます。彼は安いアパートにめいと一緒に住んでいるんですが、ドアマンの制服で帰宅し、出勤する彼は住民たちから非常に尊敬されています。しかし配置転換により、立派な制服はホテルに返さなければなりません。翌日は一緒に住んでいるめいの結婚式。なんとかして制服姿で出席したいと考えた彼はこっそり制服を盗み出して参加し対面を保つのですが、翌日、もうドアマンではなくトイレの番人であることがばれてしまい、常々彼を尊敬していたアパートの人々から総スカンをくらいます。
トイレの番人としてうなだれた寂しげな彼の姿で映画は終わります(上のジャケットの写真)。というか、終わるはずだったんですね。ところが、ここでこの映画唯一の字幕が出ます。映画製作者は主人公に対して同情を禁じ得ないので、彼はトイレで急死した大金持ちの遺産を受け継ぐことにしたと。。。そしてその後くだんのホテルの食堂で、彼に配置換え辞令を出した支配人にかしづかれながら高級食材に舌鼓をうち、かつて制服を盗み出した時に助けてくれた夜警の老人とともにホテルの従業員たちにチップを振り撒きながら馬車に乗って去っていきます。
この取ってつけたようなラストは評判が悪かったらしいですが、無茶苦茶皮肉が効いていて、おそらくハリウッド流のハッピーエンドを馬鹿にする意味があるんだろうと思うけどどうでしょうかね。
それはともかく、この映画、実に面白いことをいくつもやっているんです。まず配置換えの辞令を読むシーンは大きな文字で、配置換えの理由は年齢による衰えだという文字をカメラがパンしながら写しますが、最後のところで突然画面がぼやけます。つまりカメラはドアマンの目なんですね。涙で文字が滲んだわけでしょう。さらに街を歩いてホテルの新しい若いドアマンを遠くからこっそり眺めるシーンでは突然高層ホテルが湾曲して彼の頭の上にのしかかってきます。他にも結婚式でしこたま酔ったときの酩酊ぶりが映像が二重になることでわかるようになってます。窓の中にいる人に外からカメラが近づいていき、窓ガラスを通り抜けてアップになるなんていう、のちになればオーソン・ウエルズの「市民ケーン」でもっと巧妙にやられたり、ヒッチコックの映画なんかでもなんどか出てくるシーンもあります。
主役のエーミール・ヤニングスの演技は、正直に言えば現代ではやりすぎでしょう。彼がドアマンではなくなった途端に彼を嘲り笑うアパートの住民たちの演技も、今の映画ではまずお目にかからないでしょう。それもこれもサイレント映画、セリフで心情を表現できませんからおのずと大袈裟な身振りが必要になるわけでしょう。
内容についても、いろんなことを考えさせられます。制服というものの持つ権威と、それに対する人々の変なありがたがりようは、
以前ここに書いた「ちいさな独裁者」でも、一兵卒の脱走兵だった主人公が大尉の制服を着るとプチ独裁者に豹変しました。
むかし読んだクラカウアーの「カリガリからヒットラーまで」という映画評論では、制服が一つの権威として機能し、人々がその権威に敬意を抱きありがたがるというのを、後のナチスにつなげて解釈していましたが、たしかにそういう文脈で考えれば、上の「ちいさな独裁者」もわかりやすくなります。さらに人々の権威に盲従する真理というのも、
以前書いたハンス・ファラダの小説「ベルリンに一人死す」にでてきた人々の「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」なんていうセリフを思い出させます。
というわけで、YouTubeに日本語版はないようですが、アマゾンでは購入可能ですね。淀川さんの解説付き。買っちまおうかな 笑)
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