オラフ・ルートヴィヒの時に紹介した1988年のソウルオリンピックの映像で、ルートヴィヒが逃げた後、一瞬の躊躇の後に後ろから追いかけたそうに画面に入ってくる赤いマイヨの選手がアブドジャパロフですね。結果的には5位に終わってしまいましたが、この選手はルートヴィヒより4歳若く、ピースレース(クールス・ド・ラ・ペ)デビューは87年からですね。
初登場のこの東ヨーロッパナンバーワンステージレースで3勝を挙げ、すでに1980年以来30勝以上していたルートヴィヒの最大のライバルになります。
翌年1988年のピースレースでは第1ステージで1位アブドゥ、2位ルートヴィヒ。第4ステージ、第8ステージ、第11ステージでは1位ルートヴィヒ、2位アブドゥと熾烈ですねぇ。多分後輩のアブドゥがルートヴィヒを徹底的にマークしていたんでしょうね。
1990年に両者ともにプロ入りし、アルファ・ルムという旧共産圏からプロ入りした選手たちで構成されたチームに加入したアブドゥは、ツールに参加するも、パリで4位が最高順位で、そもそもスプリントにもなかなか参加できず、パナソニックという強豪チームに入ってポイント賞を獲得したルートヴィヒとは大きく水をあけられてしまいます。4位に入ったパリのスプリントも3位にルートヴィヒがいるし、ここまではルートヴィッヒを超えることができないという印象だったんですが、強豪チームのカレラに移った翌年のツールで一気にブレークします。
第一ステージ(33分ぐらい)で勝つと第4ステージでもボンテンピのアシストを使って優勝(2時間前後)。かなり危なっかしいコースどりですが、何しろ小柄なので腰を上げながらハンドルを大きく降って必ずどちらかへ寄って行くスプリントで、ゴール後にムセウが怒り狂ってます。今だともしかしたら降格処分かもしれないですね。
まあ、私も当時見てて、何しろスリリングだし、きったねえスプリント、と友人らと話してましたね。で、案の定、クライマックスでやってくれますね。パリの最終ステージです。
これは衝撃的でした。でも一応この後ゴールしてスプリント賞獲得でしたからね、超注目選手になったのでした。まあ、おかげでタシケントの恐怖とかタシケントのカミカゼとか、そんな勇名を馳せることになりました。翌年はツールはトラウマになったか、パッとしなかったけど、ブエルタで4勝してます。
そして1993年のツールでは3勝して2度目のスプリント賞を獲得。特に最終パリのステージで2勝目をあげてます。最終的にツールのステージ優勝9つとスプリント賞2回。プロ入りしてからの成績ではルートヴィヒを上回ったと言えるでしょう。
この後も斜行で失格になったり、派手にチポッリーニを引っ張ったりして、いろいろ話題になったのでした。
しかし、こういう怖いもの知らずのスプリント、最近はゴールスプリントでの斜行や蛇行の判定が厳しくなったから、あんまり見なくなりました。昔の写真なんか見ると自転車を大きく振ってスプリントするシーンがよく見られますが、今、アブドゥが集団の中にいたら3回に1回は失格かも 笑)
だけど、最後は97年のツールの期間中に興奮剤の服用によりドーピング違反で失格になり、そのまま引退してしまいました。この選手アマチュア時代にも興奮剤で引っかかってるんですよね。あのカミカゼスプリントで怖いもの知らずになるために服用していたんですかね。
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