なんとも重苦しい雰囲気が日本を、いや、世界を覆っています。こんな時は昔の選手の話題でも書いておきましょう。この冬の間に、拙ブログでは
ショーン・ケリーと
アドリ・ファン・デル・プールという80年代に活躍した選手のことを取り上げました。その延長で、今回もケリーやファン・デル・プールと熾烈なスプリント争いをしたエリック・ファンデラールデンのことを書いてみます。
いやあ、格好良かったんですよ。表彰台の顔が、なんとなくアラビアのロレンスのピーター・オトゥールを思わせたんですね。当時あまり情報が多く無い時代、サイスポでもポスター付きで記事になっていましたが、なんども読みましたね。そういえば一番最初に買ったマイヨはパナソニック・ラーレーの長袖でした。


特にこの上でゴールで自転車を投げている写真。ゆっくり走りながらなんども前へ自転車を投げる練習しましたね 笑) ホビーレースでも一度だけ10位争い 笑)でやったことがあり、9位になりました 苦笑) アップにしてみます。

この選手、何しろ若い頃からものすごい才能と言われていて、ジュニアの15歳のときの年間勝利数が16勝。まあ、ジュニアのレースがどのぐらいの数あるのかわかりませんが(
CyclingArchivesでは上位に入ったらレースが30掲載されています)、ジュニア時代のレムコ・エフェネプールが年間25レースに出て20勝でしたから、ファンデラールデンも勝率は結構高かったのでは無いかと思います。何れにしてもこの年ジュニアのベルギーチャンピオンになってますね。
何しろその後のジュニア時代は毎年常に30勝以上、特に18歳の時は50勝以上上げてますね。こりゃあメルクスだわ。
で、83年に21歳でプロ入りするわけですが、まずプロ入り最初の年で14勝。今なら年間14勝だと最多勝になれますね。内容もすごい。ツールのプロローグでまず優勝です。他にもブエルタで2勝ですからね。翌84年も年間19勝。ツールのステージ2勝で、ベルギーチャンピオンにもなりました。85年は24勝でツールのステージはまたしても2勝。特筆すべきはロンデ・ファン・フラーンデレン(ツール・デ・フランドル)。豪雨のレースでコッペンベルフは今よりずっと狭く、例によってカーニバル状態になります 笑) 最後グラモンの壁でフィル・アンダーソンとヘンニ・コイペルをちぎって独走勝利。いやあ、格好いい。
86年も13勝して、ツールでは緑のマイヨを獲得してますが、区間勝利はなしで、ちょっと不満が残ったかもしれませんが、翌年にはパリ〜ルーベに優勝します。これもドロドロのレースでした。
ミロワールの写真のキャプションは「パラダイスの恐るべき子供」とかいうような意味ですかね。夢見心地の恐るべき子供かな? この持ち方、人差し指と中指の間にブラケットを挟むのも、ハンドルを引きやすかったんですよね。さすがにレースでやったことはないけど。

ただ、ここまででしたね、黄金時代は。この後2、3年は年間勝利は10勝以上しているんですが、ビッグレースの勝利がぱたっと止まっちゃうんですね。21歳でプロ入りして25歳でパリ〜ルーベに勝つまでの83年から87年までがピークですね。この間にパリ〜ルーベ、フランドル、ヘント〜ヴェフェルヘム、パリ〜ブリュッセルに勝ち、ツールでステージ5勝、スプリント賞も獲得しているのに、88年以降はツールも春のクラシックもほとんど名前が出てこなくなってしまいます。まあ、細かく見ると、一週間以内のステージレースで勝利をあげたり、他のレースでも上位に入ったりしているんですが、ツールの場合、88年以降7回出場6回リタイアですからね。
当時の日本では情報は大きなレースぐらいしか入ってこないし、それまでの活躍が派手だっただけに、どうしちゃったんだろう?の時代が終わり名前も忘れた頃、1996年、サイスポにファンデラールデンの小さな記事が載っていて、パールマンという小さなチームで、ステージレース中宿泊先のホテルで酒盛りをしてレース追放、その後引退発表したというニュースが出ていたのでした。
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