
すでに拙ブログでは
「ラブレス」と
「裁かれるは善人のみ」という2つの映画について書いた。アンドレイ・ズビャギンツェフという監督の映画は全部で五作あるので、遡って観てみた。いや、どれも凄いです。何がすごいって、映画としての密度がすごい。全くエンタメにしていない真実度がすごい。暗示的に示される謎めいた作りと見終わってからの余韻がすごい。繰り返し見ても飽きない。いや、むしろ繰り返し見ることで再発見がある。こういう風に、作った作品が全て凄く繰り返し見たくなる監督はなかなかいないだろう。タルコフスキーぐらいかな?
ズビャギンツェフの第一作は「父、帰る」。12年間不在だった父親が突然帰ってくる。妻と母親と男の子兄弟二人は当惑気味であるが、帰った翌日には父親は息子二人に旅に出ようと誘う。14、5歳?の兄の方はそれでも父とうまくやろうとするが、12、3歳の弟の方はことごとく反発する。
父が帰った時に子供達が本物の父かを見比べるために父の写真を探すのは、旧約聖書の画集の中からである。だからだろう、帰ってきた父親はやけに旧約的・家父長的な父親で、無口だが威圧的である。で、反発しながら親子3人でキャンプしながら海?に出てボートで孤島に向かう。この映画は多分ネタバレしない方がいいでしょう。テーマも神話的アーキタイプとして言えるところはあるけど、それを言っちゃったら完全ネタバレだからねぇ。。。何れにしても後半でびっくり仰天の事態になり、最後は。。。しかし、ひょっとしてこれって監督自身の父親に対するイニシエーションだったのかも、と思ったりしました。なんのことかわからない? まあ、騙されたと思って見てください。びっくりするよ 笑)
ともかく映像としての密度がすごい。それから例によって謎がたくさん。しかもそれらの謎は映画の中では種明かしされない。父は誰に電話していたのか? 父が掘り出した箱は何なのか? 父が12年も不在だったのは何故なのか? まあ、なんとなくお話は作れそうな材料が並べられているけど。。。
ズビャギンツェフ、どの映画でも、最初と最後に同じものが出てくるのはかなり意図してやっているんだろう。「裁かれるは善人のみ」では、まるで何か巨大生物の死骸のような沈みかかった廃船。この図はコントラストが強調されていて圧倒的だし、途中に出てくるクジラの骸骨?と相同をなす。そういえば船や水面は、いろんな映画に出てくるけど、常にコントラストが強調されているような気がする。「ラブレス」ではリボン?が引っかかったあの冬枯れの巨木。どれも最初と最後で同じものが映し出される。
この映画では冒頭の水中のボートや物見櫓(灯台?)が最後にも出てくる。特に物見櫓はそれぞれ違うものではあるけれど、冒頭では取り残された少年を母が迎えに来てくれるが、最後の方では父に追われてそこへ逃げるという逆の舞台になる。明確な意図ありだよね。
父の立場になって、自分になつかない子どもとの葛藤と見るか、それとも子どもの立場で強権的な父との葛藤と見るかによって、イメージが変わりますね。僕は最初に見た時には前者で、2度目に見た時には後者の見方でした。
***追記:9/14, 12:59
加筆しました。
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