
平成の30年間の日本経済の惨憺たる歴史を説明解説するとともに、華々しく打ち上げられたアベノミクスとやらを「出口のないネズミ講」として徹底的に批判した本。批判だけでなく、このポスト平成の経済活動はどうあるべきかの提言も最後に述べられるが、なんども書いてきたように僕は経済については全くの音痴である。だからこの本に書かれている細かい経済用語の多くが理解できていない。それでも平成の時代の日本経済というより日本社会の凋落ぶりはわかる。ある意味、僕が自転車ロードレースに興味を持ってきた30年、この年のツール・ド・フランスの優勝者は、と考えると、芋づる式に当時の自分の状況も思い出されてくる。
1986年の日米半導体協定から日本の産業の弱体化が始まる。その後のバブル崩壊からその後始末となる銀行の不良債権処理の失敗で、企業は経営破綻を避けるために借金の返済に努め、政府も企業に対する減税でこれを支援、借金返済後もこうした政策が続けられた結果、企業は利益剰余金(内部留保)を積み上げ、賃金抑制と雇用解体によって非正規雇用が増えて格差が拡大していったというストーリーは実感として理解できる。
そこに至る原因は単純明快だ。戦後の日本の無責任体質がすべての原因である。この無責任体質に乗って、バブル崩壊後も経営責任や監督責任は曖昧にされ、平成は「失われた30年」になった。
無責任体質どころか、戦犯が総理大臣になったのだ、この国は。天皇は我が身を守るために沖縄をアメリカに譲り渡し、原爆投下すら容認した。最高責任者が責任を取らなかったのだ、それより下の、若い人たちを無意味に死なせた戦争の責任者たちの多くが知らん顔を決め込んだのは当然である。
この無責任体質は「新自由主義」と親和性が高く、「すべては市場原理が決めると言う論理は、なにもしない「不作為の無責任」を正当化」(p.94)する。「責任を問われるべき経営者や監督官庁にとって、これほど都合の良い政策イデオロギーはなかった」(p.94-5)と言うわけである。
これまでも拙ブログで書いてきたように、
僕は「自己責任」という言葉の胡散臭さをずっと書いてきた。本来責任を取るべき権力者たちが責任など取らず、一般庶民に自己責任を押し付ける。困っている人を見捨てるための便利な言葉だ。
「コンクリートから人へ」を謳った民主党政権も、その意味ではこの流れを止めることはできず、そこに東日本大震災とそれにまつわるフェイク情報が重ね合わされて、結局まともなことをほとんど実行できなかった。
第二次安倍政権になると「中韓に追い抜かれつつある国民の屈折した感情を、戦争責任を曖昧にする歴史修正主義で解消」(p.123)しようとすることで、人々の心の奥底にある差別意識を解放させて、いわば溜飲を下げさせて人気を得ようとした。
同時に途上国の独裁政権ではないのか?と思える仲間内の優遇や不正の数々(森友、加計、南スーダン日報、データ隠しに基づく「高度プロフェッショナル」制度、勤労統計などの統計不正、閣僚のスキャンダル)。「安倍政権は税金を集め、その税を使って支出して国民を統合するという、まっとうな政治の基盤を徹底的に壊してきた」(p.128)のである。
安倍政権になってから法人税減税による減収は5.2兆円で、その結果は企業は内部留保を積み上げ、企業同士が受け取る配当収入を増やしただけだそうだ。
先日の共産党の小池晃の、「大企業に対する法人税を中小企業並みにすれば4兆円、株で儲けた富裕層に対する所得税をまともなものにするだけで3兆円がでてくる」というのを聞けば、安倍がやっていることは、国体(=天皇)が守られさえすれば、国民は死滅してもいいと考えていた大日本帝国と変わりはない。実際、この本が出た後に起きたことだからここには書かれていないが、年金は当てにするな、自己責任で老後のために2000万貯めろというのなど、国のあり方として絶対に許されるものではない。
さらに原発にしがみつき、世界的なエネルギー転換から置いてきぼりを食らっているとともに、再生エネルギーをめぐる新たな産業の芽を摘んでいる。そもそも生活保護の給付金を減らすことには賛成する人たちは、その額とは比べ物にならない「もんじゅ」や六ヶ所再処理工場での無駄遣いを何故怒らないのだろう?
それにもかかわらず、安倍政権は潰れない。多くの人たちが安倍政権を積極的に支持しているわけではなく、他に支持できるものがないからという消極的な理由であることは世論調査などからもはっきりしているのだが、それを支えているのが、安倍政権のポピュリズム、つまり「人々を煽る扇動型ではなく、人々を諦めさせる黙従型」(p.136)のポピュリズム(=衆愚政治)であるという。
要するに公文書やデータを改竄して失敗をごまかし、政治家がいくら不正を行っても謝罪会見だけして居座り続け、沖縄の民意を無視して工事を強行し、まともに審議もしないで強行採決で欠陥法案を採決していけば、人々の間に「またか」という気分が蔓延し、それに慣らされていく。「諦めとニヒリズム」だけが引き出され、人々を政治から遠ざける。投票率が低い選挙なら組織票がある党が勝つのはわかりきったこと。前にも書いたが、この政権はめちゃくちゃをやって国民に呆れられれば、それだけ安泰になるのである。
そしてアベノミクスという「出口のないネズミ講」は、「我が亡き後に洪水よ来たれ」という究極の無責任体制である。
この本には最後に(1)社会基盤として透明で公正なルール、(2)教育機会の平等、(3)開発独裁国家のような「縁故資本主義」をやめて、新しく伸びている産業(情報通信やバイオ医療やエネルギー転換)を念頭に置いた「成長戦略」、(4)電力会社の解体、(5)地域分散ネットワークシステムへの転換、(6)財政金融機能の回復が提言されている。これらすべてが現在の悲惨な日本社会にとって本当に救いになるのかどうかは、専門家ならぬ僕にはわからないけど、(1)や(2)、(5)などは普通に納得できるものだ。
僕が理想だと思っている拙ブログのモットーのような、「社会は強い者がより強くなるようなためにあるのではない」という社会、それは、たとえ今すぐに安倍政権が潰えたとしても、かなり時間がかかることなんだろう。
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