先日紹介した映画「金子文子と朴烈(パク・ヨル)」で、意地悪な看守が、金子文子が書いた獄中手記を読んで徐々に二人に同情するかのように態度を軟化させ、最後はひっそりと彼らの裁判の傍聴までするというエピソードが挟まれていた。僕としては、この看守役のあごひげの、いかにも高圧的な官憲らしい顔と、その後の何か感じるところがあるかのような顔にとても心打たれた。
その獄中手記を読んでみたいと思って、図書館で予約したら、映画のせいもあったのか、2人待ちだった。で、読んだ。なるほど、ものすごい話だった。この本は、映画でも彼らに同情的な検事として出てきた立松懐清の勧めに従って幼い頃からの生い立ちを書いたものだけど、よくもまあ、こんな人生を送ってきた22、3の娘が、これほどまでに立派な文章を書けることに、まずびっくりする。
父と母は金子文子の出生届を出していない。そして父は母の妹と駆け落ちする。残された母の方も、次々と男を変える。しかし何れにしても呆れるような貧乏暮らし。文子は無籍者ゆえに学校にも行けない。朝鮮の祖母と叔母の元に預けられると、もうほとんどグリム童話の継母か魔女のお婆さんにいぢめられる娘状態。まあ凄まじい。
さらに日本に戻ってきてからもろくな目に合わないで、露店で粉石鹸を売るところなどアンデルセン童話のマッチ売りの少女を連想して、胸ひしがれる思い。キリスト教に救いを求めたり、社会主義者たちに希望をつないだりするけど、どちらも欺瞞を感じて幻滅する。
そうしたことが実に表現力の豊かな言葉で語られるのだが、その文才に本当に驚かされる。ものすごく頭の良い人だったのだろう。ただ、朴烈というアナーキストに惚れた彼女が、アナーキズムについてもっと雄弁に語るかと思ったのだが、それはほとんどない。
朝鮮時代を回顧して「朝鮮にいる時私は、自分と犬とをいつも結びつけて考えていた。犬と自分とは同じように虐げられ同じように苦しめられる最も哀れな同胞(きょうだい)かなんかのように感じていた」(214)と書くのだが、これがのちに朴烈の「犬ころ」という詩に感動することに繋がるのかもしれない。
朝鮮時代、一度は死のうとしながら、世の中には愛すべきもの、美しいものがたくさんあると感じて死ぬのをやめた彼女が結局刑務所内で自殺してしまうのは、ひょっとしてこの手記を書いたことで自分の存在証明を全うしたと思ったからではないか、そんな気がする。
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