
(ノーカントリーの殺し屋)
見ていて途中で「もう誰にも止められない」とつぶやきながら、ああ、これは「ターミネーター」のパロディだと思った。そして最後まで見て、ハビエル・バルデムという俳優がやった殺し屋は、これは死神の比喩だと思い、ベルイマンの「第七の封印」を連想した。

(第七の封印の死神と騎士)
あの殺し屋は人間ではない。死神である。じゃなきゃ、後半追われている主人公?が殺し屋に見つかるのはなぜ? ああなるともう人間業じゃないよね。
何かに追われて追い詰められていく映画はいくらでもあるんだろうけど、この映画はそういう映画の最後のカタルシスを放棄してる。追い詰められたという感じもないまま、突然、えぇ??っていう感じ。それも1度や2度じゃないし、後半へ行けば行くほど えぇ?? の連続 笑)
1980年代のメキシコとアメリカ。麻薬取引がらみの大金を見つけた主人公?が殺し屋に追われ、さらにそれを察知した宇宙人ジョーンズ 笑)の保安官がそれを追い、さらに麻薬組織から派遣された殺し屋もそこに絡む。
何しろハビエル・バルデムの殺し屋が人間離れしている。数ヶ月前にベルギー映画で「ありふれた事件」という非常識極まる倫理も悔悟もない悪辣な殺人鬼を主人公にした映画を見た。そこでは殺人鬼の男が老若男女かまわず片っ端から殺しまくる。それをドキュメンタリーにしようとするクルーが一緒になって追いかけ、話をしたり一緒に食事をしたり、果ては死体の処理に手を貸したりするというひどい映画だった(もっとも、この映画のテーマは殺人ではなく、むしろ撮影する側の狂気なんじゃないかと思ったけど)。

(ありふれた事件の殺人鬼)
だけど、その時の主人公の殺人鬼は、ハビエル・バルデムのような理不尽さ、話の通じなさはなかった。少なくとも話はできる(したくはないけど)と思えた。また、「第七の封印」の死神は主人公のマックス・フォン・シドー演じる騎士と話をする(チェスで賭けをする)けど結局約束なんて無視して、騎士はみんなと一緒に死ななければならない。
それに対して、約束を守るも何も、この殺し屋は手当たり次第に理屈もなく殺す。自分の利害、金とか欲とかいうもののために殺すわけでなく、論理もヘチマもありゃしない。途中で一度コインを投げて裏表を言わせ、当たっていた時だけ殺さずに立ち去る。もうこうなると運だよね。要するにあの殺し屋は自然災害とおんなじだ。先の「ありふれた事件」の殺人鬼は何かコンプレックスを抱えているような、殺人鬼になってしまった原因が辿れそうな気がするが、こっちの殺し屋にはそういうものが全く感じられない。
この殺し屋、途中追われている主人公?の反撃で足に銃弾を受けるけど、それを治療するシーンなんか、完全にターミネーターだ。最後も複雑骨折(開放骨折だよ!骨が出てるんだよ!)した腕を抱えて去っていく。やっぱり考えれば考えるほど、ありゃあ人間じゃない、死神か自然災害に違いないね。
しかし最後もあれで終わり? 保安官がやってられないと辞職し、自分の家でボソボソと不平を述べているシーンで突然暗転、エンドロールになる。結局、正義の味方の保安官にも、死神や自然災害が相手ではなすすべがないってことだ。これまでのこうした「追われるハラハラ感」を感じさせる映画すべてを吹っ飛ばしうっちゃりを食らわせる映画でした。
監督のコーエン兄弟の映画は昔「バートン・フィンク」を見たけど、その時もわけわからなかった。主人公の宿泊しているホテルの隣の部屋のデブの気持ちの悪い男が火事なのにニヤニヤしているシーンが記憶に残ってるけど、他はあまり印象に残ってない。今回のも、ある意味気持ちの悪い、見た後の気分は最低の映画だわ。多分もうコーエン兄弟の映画は見ないでしょう 笑)
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