一昨年の相模原やまゆり園での障害者殺傷事件について、雑誌「創」で発表されたものを集めて編集した本。私もそうだが、障害当事者やその家族にとっては忘れようもない事件であるのに、一般的にはもうすでに忘れられた事件のような扱いだ。おそらく被告の裁判が始まれば改めて少し注目されるのかもしれないが。
新自由主義的な市場万能主義と社会ダーウィニズムが組み合わされば、効率の悪いものは「排除」されて当然、というところに簡単につながる。「社会に果たしている貢献度に応じて価値があるという馴染みやすいけれども間違った発想」(p.236)が蔓延している。要するにわかりやすくしたいのだ。生に順番をつけたがっているのだ。あの生とこの生の価値を比べてどちらがどうだと言いたがっているのだ。あなたの生と私の生、彼、彼女の生、さあ、どれが一番価値があるでしょうか? それを決めるのが効率性。
だが、一度これをやってしまったら、あとはなし崩し的に効率の悪さの基準値が上がっていくだろう。効率が悪い障害者は雇わない。今話題の事件だ。いいだろう、障害者を「排除」した。さて、次は平均よりも効率が悪いものは「排除」しよう、さらに残ったうちで、また平均以下は「排除」しよう、さらに残ったうちで。。。。
趣味の悪いアネクドートだ。さて、「排除」というものを極端なところでやって見せたのがこの事件の被告だ。だが、「排除」というのが殺害につながるのは普通の感覚ではない。だからこの本の中でも書いている人たちみんなが、精神医も含めて、被告のことを理解できないと言っている。僕も理解できない。だけど、やっぱりあれだけ安倍に自分の考えを伝えてくれと懇願するような手紙を書いたことに、何か変な全能感、自分で決定して実行したという独りよがりの満足感のような、安倍と共通する感性が感じられてならない。これはこの事件が起きた当初から拙ブログでは言ってきたことだ。この事件は安倍的空気を反映している。そういう意味で、ありふれた表現だが、この事件は現代の荒んだ社会を示している。
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