図書館では20人待ちだった。なるほど、むちゃくちゃ読ませる。特攻の話は拙ブログでも何回か書いている。
以前西川吉光という人の「特攻と日本人の戦争」という本のことを書いたこともある。あの時も参謀たちの無責任さに呆れる話ばかりで、怒りしか感じなかったが、今回もその思いを強くした。
特に海軍も陸軍も最初に特攻作戦の要員に選んだのはトップクラスのパイロットたちだった。それにより確実に特攻作戦が成功するとともに、、優秀なパイロットが一番に特攻したのだから(特にこの本で扱われる陸軍の場合は特攻を否定していた岩本大尉が一番に特攻したのだから)、あとは誰も逆らえないという雰囲気作りをした。
鴻上尚史は、特攻作戦が継続したのは、アメリカに対する有効性ではなく、「日本国民と日本軍人に対して有効だったから」(p.257)だと推定する。同時に「命令した側」が、過剰な精神主義(敵機は「精神」で撃ち落とすのだとのたもうた東条英機)を振り回し、文字通りの意味での「必死」(必ず死ぬ)により「精神」が十全に発揮できるという考えにつながるのも当然といえば当然のことなのだろう。
そんな中、本書の主人公佐々木友次は陸軍の第一回目の特攻から、都合9回特攻を命じられ、9回ともに戻ってきた(離陸できなかったケースも含む)。最後の方では参謀から、なんでもいいから死んでこいと命じられる。それでも戻ってくると、さらに銃殺命令まで出るところだったらしい。彼はただ死ぬのが怖くて逃げたわけではない。実際に爆弾を2回投下し、そのうち一つは敵艦に命中させている。彼は無意味に死んでこいという命令に逆らったのだ。
しかし、鴻上尚史が繰り返し言うように、あのプレッシャーの中で上官の命令に逆らい続けるだけの強さは並大抵のものではない。同時に、今の我々に向かっても、「死ぬな!」というメッセージになっている。
鴻上尚史は特攻について考えるときに、「命令した側」と「命令された側」をしっかりと分けて考えなければならないと主張し、こう言っている。「特攻隊員を『英霊』『軍神』という無条件で讃える言い方(。。。)によって『命令した側』の存在が曖昧になってしまう(。。。)『英霊』『軍神』と褒め称えると、そんな特攻隊員を生んだ「命令した側」も評価されるイメージが生まれる」(p.229)。だから、拙ブログでも繰り返してきたけど、特攻隊を単純に「美化」することには慎重でなければならないと思う。
また、最後の方で、元特攻隊員だった人が率直に特攻作戦を非難し、死ぬのは嫌だったと吐露すると、特攻隊員ではなかった元兵士たちから突き上げを食らい、罵倒される話が出てくる。
鴻上尚史は「命令した側」と「命令を受けた側」だけでなく、「命令を見ていた側」というのもあると分類するが、実に複雑な話で、「自己責任」という言葉を振り回す権力者たちに対して怒り抗議の声を上げるのではなく、その言葉に乗って弱者(生活保護や透析患者)を「自己責任」と突き放す現代社会の一般人のことを連想した。
つまり、「自己責任と言い募る側」(そのくせ自分の責任は全く取らない)と「自己責任と言われる側」、そして「それを見ている側」。最後の見ている側が一番罪が大きいのかもしれない。
最初から否定しようとかかっていれば別だが 苦笑)、おそらく誰が読んでも読んでよかったと感じるだろう。
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