これまで資料なしで記憶の中だけで書いてきたこのシリーズですが、今回はいろんな資料を見ています。
なんどか書いたようにぼくは昭和45年頃から阪神ファンになりました。東京生まれの東京育ちなのになんで?と言われると、ただの天の邪鬼だったからとしか言いようがありません。じゃあなぜ広島や大洋、あるいはパリーグじゃなくて阪神?と言われると、まあ、その程度の天の邪鬼だったからとしか、これまた言いようがありません。
今年は惜しかったなぁ。でもあまり期待していなかったのに最後の最後まで優勝争いができたんだから、まあ、これで良いでしょう。今年は十分楽しませてくれました。
だいたい阪神って終盤にぼろぼろになることが多いんですよ。一昨年だっけ?読売に10ゲーム以上差をつけたのにひっくり返されたのは。他にも、こういうのって、いっぱいありましたね。1992年だったかなぁ、中村監督時代、終盤に首位に立ち、2,3ゲーム引き離して、アウェイゲームが続くと言うとき、中村監督は「Vロードへ出かけてきます。甲子園に戻るまでに決められると良いですね」とか言って、結局ぼろぼろに連敗して優勝を逃したり。。。
そして今回話題にする昭和48年も、最後4試合残して2勝すれば優勝だったのに1勝3敗で、しかも最終戦は読売と甲子園で試合っていうのに9-0で負けるという体たらく。でもそんななかでこの年の10月10日体育の日の読売戦がぼくの記憶に鮮明に残っています。鮮明といっても、実は資料を見ると、細かいところはほとんど忘れていたんですけど。
昭和48年。ぼくは受験を控えた高校3年生。いいのか、野球なんかにうつつを抜かしていて! この年の阪神タイガースは、夏頃には読売との試合で9回2アウトまでリードしていたのに、平凡な外野フライを外野手の池田が転んで3塁打にして逆転負けしたり(この池田もしぶい好選手でした)、その少し後では江夏が中日戦で阪神キラーの松本と投げ合って11回裏に自らさよならHRでノーヒットノーランの記録を作ったり、印象に残るシーズンでした。
池田落球の試合はぼくはラジオで聞いていました。当時のTVは延長放送なんかなかったですからね。江夏のノーヒットノーランは東京ではTVはむろんのこと、ラジオでもやってませんでしたね。読売一辺倒でしたから。だから各地の途中経過で状況を知るしかなかったですね。なんとか関西のラジオ放送を受信しようとしたと思いますが、駄目だったんだと思います。その後、夜のスポーツニュースをはしごしたんですが、どこも読売の試合ばかり。当時はプロ野球ニュースもまだやってませんでしたからね。やっと一局ほんの2,3分のスポーツニュースでやってくれたのを見た記憶があります。
夏頃は読売にかなり差をつけられていたと思いますが、だんだん挽回して0.5差で迎えた10月10日、休日のデーゲームでした。記憶のなかでは甲子園だったけど、実は後楽園でした。これが驚くなかれ、ユーチューブにありますね。6つに分かれてますが最後のところだけ挙げておきましょう。
今回あの10月10日以来、実に37年ぶりに見ました。いやぁ、懐かしい。読売の先発は高橋一三ですよ。阪神はアンダースローの上田二郎。この年上田は20勝していると思います。しかし後半は調子悪かったんですよね。この試合でも先に読売に点を取られ、その後古沢がリリーフ。古沢もこの年18勝ぐらいしていたと思います。その古沢も打たれて6回までに1-5。6回になって阪神の三塁手の後藤がHRで2-5になり、望月とか桑野がヒットで出たりしてノーアウト満塁。
この桑野は当時の阪神の代打の切り札で、この少し後の年にはほとんど神がかり的な代打成功率だったと思います。追い詰められてから13球ファールで粘ってヒットを打つとかね。私にとって阪神の代打の神様は川藤でも八木でも桧山でもなく、この桑野ですね。
さて、その後藤田平もヒットでノーアウト満塁になったんですが、2番の中村勝広と3番の遠井吾郎がふたりそろって三球三振。読売のピッチャーは高橋から倉田に替わっていました。いや、実はこのあたりの細かい記憶はまったくなにも残ってませんでしたね。今回のユーチューブのおかげです。
で、2アウト満塁ワンストライクツーボールから田淵が逆転スリーラン。
ここまではユーチューブで見られます。田淵特有の、打った後バットを投げ捨てるときにバットがクルクルと回るんですよ。しかしファンが一人グラウンドに駆け込んで田淵と握手してる。こんなことが当時は良くありましたね。最近は即排除されるか、むしろグラウンドに入るなんてありえないし、あり得たとしても選手がファンと一緒に走って握手するなんて考えられないよね。
しかし実はこの後も重要なんですよね。この後がユーチューブにないのはなぜ?というわけで、ここからは記憶だけが頼り。リリーフしたのが江夏ですよ。江夏もこの年20勝していたと思います。20勝投手の上田が先発し、18勝の古沢がリリーフし、20勝の江夏がストッパーに出てきたっていうわけ。なんか信じられない継投ですね。
この当時の江夏はチームで孤立していました。上述のノーヒットノーランも、野手たちが江夏が投げている間はやる気がなかったという話があるぐらい。この年の監督の金田は、前年村山投手兼任監督が休養した後を継いで、監督に収まり、乗っ取ったと、まあ、いろんな悪口が言われている人で、私は村山のファンでしたから(といっても全盛時代はさすがに知らないんですけど)、金田のことは嫌いでしたし、選手たちの間でも不人気だと言われていましたが、孤立したもん同士で仲良くなるかと思いきや、江夏も金田とはまったく口をきかず、まあ、金田はどうでも良いんですが、江夏は選手からもコーチからも総スカンを食らっていたわけです。考えてみれば、それでよく20勝もしたなぁ。
かつてはシーズンで401の三振という空前絶後、今後絶対破られることのない記録を作り、さらにこの2年前にはオールスターで9人連続三振(通算15人連続三振で、16人目は野村が、あきらかに記録を破るためにバットを短く持って当てにいって内野ゴロでした)を奪っていた江夏でしたが、この年はあまり三振を取れていなかったと思うんですね。それが、6回ウラからリリーフに出て4イニングで5つか6つの三振を奪い、ほぼ完璧なピッチングで読売打線を抑えて、この試合に勝った阪神が0.5ゲーム差で首位に立ったのでした。
翌日もものすごい試合で10-10の引き分け。たぶんプロ野球史に残るのはこっちのゲームなんでしょうけど、ぼくはこの田淵の逆転HRと江夏の救援のほうが印象が強いですね。
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