
あまりに現在の社会の状況にドンピシャ当てはまることばかりで、もう個人的にもデジャヴ感満載の映画だった。パンフレットに木村草太が書いていることは、そこに何も付け加えることがないぐらいこの映画と現代の日本を結びつけてくれる。
個人的にも今年は
FBのあるグループで南京虐殺全否定の女性とやりあって呆れ返ったので、この映画を見ながら、そして「悪役」のアーヴィング(ティモシー・スポールという俳優で、憎まれ役を実にうまく演じている。画家ターナーの役をやっているそうだ)の主張を聞きながら、ずっとそれを思い出していた。
否定派のやり方は洋の東西を問わず同じだ。それは、一点突破方式で、それが通れば全否定。ガス室はなかったと主張し、生存者に向かってドアは右にあったか左にあったかを問うて、各生存者の主張に齟齬があれば、それで彼らを嘘つき呼ばわりしてガス室の存在も全否定する。
ガス室に、生存者が証言した煙突状の毒ガスを放り込んだ穴があったというところを捉えて、それが見つからない、つまり穴がないかった以上ガス室はなかったと言い張る。木を見て森を見ないやり方だが、これが思ったより効果的なのは、例えば朝日の従軍慰安婦問題を思い出せば明らかだ。
吉田某が嘘をついていたから従軍慰安婦はいなかったという、例の朝日事件。朝日が謝罪したことで、一気に従軍慰安婦はいなかったことにされた。少し前までは吉田の嘘を暴いた秦郁彦自らが、「これを持って従軍慰安婦の強制連行がなかったということはできない」と言っていた(現在の秦郁彦がどう言っているかは知らない)。そういう慎みがあったのだ。
いずれにせよ、前にも書いたことだが、否定派は事実がどうであれ、否定していることを世間に知らせ、それによって世間に、この問題(この映画ではアウシュヴィッツ)が、肯定する人もいれば否定する人もいるのだと思わせておくことができれば、それで目的は達成できたわけである。マスコミも両論併記などと言って、自分たちの判断を棚上げして両論併記することで「公平中立」と思い込む。
アーヴィングは裁判で負けた後も、相変わらず言い逃れを続け、裁判の判決など意味がないような顔をする。この点も、洋の東西を問わず、歴史改竄主義者たちのやり口は同じだ。論破されても同じことを言い続ける。真実はどうでもいい、嘘でも言い続ければ、それを信じたがる連中もいる。だからこういう人たちとは同じ土俵で議論しても時間の無駄で、以前書いたように、お祓いの方が有効な手立てである 笑)
ところで、この映画は実話で、登場人物たちも実在の人物だそうだ。主人公のリップシュタットはもちろん、アーヴィングも存命である。それなのにこういう映画を作れるということにおどろかされる。アーヴィングのやったことは、資料のうち、自分の主張に都合の良いところだけを抜き出し、都合の悪いことには触れずにおくというもので、それは裁判所が指摘して、アーヴィングの敗訴となったわけなのである。しかし、同じようなことはすでに日本の裁判所でもあって、例えば南京事件は裁判所が一貫して大虐殺があったことを認定している。しかし、日本ではこんな映画は作れないだろう。両論併記の掛け声に真実と嘘を併記するようなマスコミの国では絶対無理だろう。
それはともかく、強く印象に残ったシーンがある。主人公の弁護団がアウシュヴィッツを見に行くシーンで、法廷弁護士が、主人公からアウシュヴィッツを見てどう感じたかと質問されて言うセリフ。
「恥を感じた。もし自分があのような立場に立たされたら、自分だって同じことをしただろう」
彼は殺されたユダヤ人たちのことではなく、ユダヤ人を殺した者たちの立場に自分を置いて考えたのだ。この視点が多くの人には欠けているのではないか、強くそう思う。
映画は月曜の2時半からの回を見たのだけど、7割がた埋まっていて、しかも思ったより若い人も多かった。映画としてもとても面白かった。すでに結果は最初から知られているわけだから(ヴィキペディアの日本語版でもこの裁判については書かれている)、そういう意味ではハラハラドキドキする法廷劇というものではないけど、主人公リップシュタットの心情の変化やイギリスの裁判の特徴、事務弁護士(これはTVの「シャーロック」でモリアティをやっていた俳優だった)と法廷弁護士がいることなど、いろんな意味で面白かった。

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