「社会主義」と言いつつも、ここで語られているのは国のあり方としての社会主義ではない。町並みのあり方とかワークショップの活用とか、生活や労働の楽しさ、地域社会のあり方など、社会主義などというコワモテの言葉とはちょっと想像がつかないようなレベルでの話がメインである。
ここで二人が語る社会主義は「主義」ではない社会主義であると言えるかもしれない。主義を振りかざすと楽チンなのだ。なんとか主義でいけば、それに規定されている通りに発言・行動すればいいのだから。だけど逆に言えば、「主義者」を自認すると、教条的で融通が利かないし、首尾一貫していないといけないという強迫観念に追い立てられがちである。社会のあり方を一気に、例えば革命で、ひっくり返したくなる。当然行き着く先は全体主義的な方向だ。そうしてロシア革命はスターリニズムという独裁・全体主義に陥ってしまったわけである。
だけど、ここで言われている社会主義はロシア革命よりだいぶ前のイギリスの、協同組合の祖ロバート・オウエンやトマス・カーライル、装飾芸術家のウィリアム・モリスや美術評論家ジョン・ラスキンの提唱したものだ。当時のイギリスはものすごい格差社会で、工場労働者たちの生活の過酷さは想像を絶するものだったという。政府は救貧院施設を作るが、それもひどいものだった。救貧院に貧困者が殺到してしまうのを避けるため、わざとひどいままにしておいたという。
なんだか生活保護に貧困者が殺到しないように、様々なフェイクニュースを流している日本社会を思わせる話だ(在日外国人の生活保護不正受給なんていうのがその最たる例だろう。こんなものはまともな生活保護についての本を一冊でも読めば嘘であることがすぐにわかる)。
さて、著者たちは社会主義から学ぶべき点だけをつまみ食いしたらどうかという。つまり社会主義か資本主義か、というどちらかではなく、両方の良いところを合わせたらどうか、ということだ。これは社会民主主義的なものだろうと思う。社会民主主義というのは、以前
拙ブログでも紹介したトニー・ジャットも言っていたように、西洋だけでうまくいったシステムだった。僕が漠然と憧れを抱いている北欧、デンマークやスウェーデンやノルウェー、フィンランドの福祉国家と呼ばれる国が戦後取り入れたシステムである。
社会主義というと企業が国営化され、私有財産も国有化されてしまうというイメージがあるのかもしれない。だけど上にあげた北欧の社会民主主義国はどこもそんなことをしていない。もっとも今の日本共産党だって企業の国有化とか私有財産の廃止なんて言ってないのだから、ましてや。。。
つまり現在の日本の社会がどうなればいいと思うか、ということだ。このまま格差が広がっていって、極端な話、昔の映画「メトロポリス」のようにごく一部の豊かな者と、多くの貧しい労働者たちに社会が二極化してしまうのがいいのか(いいわけない!)、それとも「誰しもがディーセントな(=満足できる、きちんとした、まともな、しかるべき。。。)暮らしのできるフェアな社会」(p.126)を目指すのがいいのか、ということだ。社会主義という言葉を出しているのは、戦後日本ではこれまでなかったような格差の広がった社会、ある意味で「自由な」資本主義がやりたい放題になった結果生じざるをえなかった格差社会を是正するための方便なのかもしれない。
今の若い人たちがどう思うのかは知らないが、一億総中流と言われた昭和の時代に青春時代を送った世代として、現在のこんな格差社会はどう考えたって人々の幸せにつながるとは思えない。それを何とかするために、とりあえず、現時点でできることとして、社会主義、あるいは社会民主主義というものをもう少し考えてみるべき時だと思うのだが。。。

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