月曜の夕方、この映画を見てきた。時代設定、舞台、映像が僕のツボだった。第1次世界大戦が終わった1919年のドイツ。主人公アンナの婚約者フランツ(これが原題)は戦死し、彼女はその婚約者の両親の元に下宿している。
小津の「東京物語」の原節子のように、血のつながりがない婚約者の両親に尽くしているし、両親からも愛されている。その婚約者の墓の前に花を捧げて泣いているフランス人アドリアンが登場。戦前のパリでフランツと一緒に過ごした友人だと言う。
このアドリアンがまた、ドイツ人らしい顎のはった峻厳な顔をした人たちの街で、エラのない細い顔をしてて、ただひたすら「おフランス」な顔立ち。戦争が終わったばかりでフランスに対する反感の中、フランツの両親も最初はフランス人だというだけで、アドリアンを拒否しているが、徐々にフランツの友人だったということで受け入れ始める。
以下、ネタバレの暗示あり 笑)
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エーリヒ・マリア・レマルクの第1次大戦を舞台にした「西部戦線異常なし」という小説の中に、敵味方入り乱れた砲撃の中を敵味方の兵士たちが右往左往する中、主人公が砲撃でできた穴に飛び込んで伏せていると、そこに敵兵が飛び込んでくる。主人公は夢中で銃剣で敵を刺す。ところが砲撃の中、主人公は我に帰るとトドメを刺す勇気がなくなってしまう。穴の外は銃弾が飛び交い、嵐のような砲撃の中、外へ飛び出すことはできず、瀕死の敵のあえぎ苦しむ声を聞きながらその場にじっとしているしかない。
ものすごく恐ろしいシーンで、この小説は映画化されていて、映画の中でも恐ろしいシーンだった。主人公は徐々に罪の意識に苛まれ、瀕死の男を介抱し、彼が死ぬと彼の胸元から軍隊手帳などを取り出し、写真や手紙を見つけ、殺した男の名前を知る。戦争が終わったら細君に手紙を書くと決意したり、殺した相手が印刷屋であることを知ると、生き残ったら自分も印刷業をやろうと思ったりする。
しかし、夜を越えて二日間続いた銃撃・砲撃が終わり、穴から出て味方の元に戻ると、その話を誰にもせず、しばらくすれば、自分自身もそれを忘れてしまう。恐ろしいエピソードである。
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さて、この映画はパートカラーで、現在のシーンは白黒、思い出のシーンやアンナとアドリアンが打ち解けてピクニックに行くシーン、アンナの夢のシーン、そして最後のシーンだけがカラーになる。カラーのシーンも美しいけど、モノクロの、それも特にドイツの街のシーンが素晴らしい。
ハネケの「白いリボン」を思い出させるような街の様子は、ドイツに心惹かれてきた僕にとってのツボだった。
アドリアンが語る戦前のフランツとの友好関係は、トリュフォーの「突然炎のごとく」の文学青年のドイツ人ジュールとフランス人ジムのよう。それぞれフランスの詩に魅せられたドイツ人フランツとドイツ語を巧みに操るバイオリニストのフランス人アドリアンという設定も自然である。だからこそ、そういう若者が戦場に行き、殺しあわなければならなかったということの悲劇性が強まる。
前半はドイツを舞台に、フランス人アドリアンの嘘が、そして後半は舞台をフランスに移し、ドイツ人アンナの嘘が見るものをハラハラさせる。不在のフランツに対する嘘。とはいえ、アドリアンの嘘は概ね予想がつくし、アンナがフランスに行ってから起きることも、多分そうなるだろうと想像がつく。むしろアドリアンが告白した真実をアンナがフランツの両親に話すのかどうか、それが一番のサスペンスだろう。
ただ、僕としてはそういうサスペンス面以上に、ドイツの街の白黒映像や、アドリアンがフランツの遺品のバイオリンで演奏するショパンのノクターンのバイオリン編曲版に心踊る思いだった。
出てくる俳優の顔がいい。フランツとアドリアンは典型的なフランス人とドイツ人の青年の顔だし、ドイツ人女性のアンナに対して最後の方で出てくる娘ファニーも、いかにもフランス人という感じ。そしてフランツの両親とアドリアンの母の対照的なことも、うーん、ドイツ人ってやっぱりこんな顔したやつ多いよね、フランス人はやっぱ、こんな顔だね、と納得させられた。そして最後、いわくあるマネの絵を見るカラーの映像のアンナの微笑んだ顔に、少しほっとする。
しかし、この後の歴史を知る僕らには分かっている。この十数年後にはヒトラーが政権を取り、再びドイツとフランスは戦火を交えることになる。その頃アンナやアドリアンは40から45歳ぐらいで、子供が男の子だったら戦争に駆り出され、殺し合いをしたかもしれないのである。
雰囲気も音楽も、設定も映像も、そして脇役たちの造形も、とてもいい映画だった。

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