昨日は仕事の後に「ベルギー奇想の系譜展」を見て、さらに夕方この映画を見てから、
日本最年長DJのいる餃子屋さんで痛飲。
というわけでこの映画、
以前その原作「ベルリンに一人死す」について書きました。原作は傑作だと思います。映画はこの原作を知っていると、登場人物がかなり「映画的」になっています 笑) つまり、小説より人間関係がわかりやすくなっているし、かなりマイルドです。
密かに反ヒトラーのビラを配る主人公クヴァンゲル夫妻は、自分たちはナチスの共犯者にならなかった、自らの主体性を放棄しなかったと言って、満足して刑死し、彼らの生き様に心を打たれたゲシュタポのエシュリッヒは押収した葉書をもう一度ばらまくわけで、非常に感動的になっています。
たとえば、これも少し前に
ブログに書いた「ヒトラー暗殺、13分の誤算」でも、ヒトラーを暗殺しようとして捕まるエルザーの態度に心打たれた検察官ネーベ(名優ブルクハルト・クラウスナーがやってました)は、のちの
ワルキューレ作戦という軍部のヒトラー暗殺計画に加わって刑死することになっていました。つまり、彼らがやったことは決して犬死ではなかった。一粒の種は地に落ちて死ななければ、一粒のままだが、落ちて死ねば多くの実を結ぶという聖書の言葉をなんとかつなげたいという「いじましさ」を感じてしまうんですね。拙ブログのモットーにしているガンジーの言葉を思い起こしてもいいでしょう。
「あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためです」
映画のような展開なら、これでいいんですが、原作はこんなに美しく死なせてくれません。原作では映画に出てこなかった、まるで無関係の親類まで巻き込まれていきます。これは辛い。同時にナチスの、まるで白土三平の「カムイ伝」に描かれる話のように、一族郎党がみんな同罪にされてしまうような残虐な社会では、反抗することイコール自分の死であるだけでなく、無関係のものも含めた死になってしまう。
また、夫妻が置いた葉書を読んだ人たちの反応があまり出てこないですが、原作ではナチのような監視密告社会では人々がどう反応するかがとてもうまく描かれています。
原作にはヒトラーユーゲントの青年が語る印象的な言葉があります。「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」というもので、これに対して、主人公夫婦はまさに自ら考えて、従うことをやめたわけですが、それが無関係の人まで巻き込んで死なせてしまう。ナチスのように残虐悪辣な社会で、自らの精神の自由を守ることはどういうことか、なかなか簡単に解決つかない問題でしょう。
映画としては当時のベルリンの雰囲気や、アパートの様子、戦争だから大量に必要になる棺桶製造工場の雰囲気など、とてもリアリティがあり、さらに主役の二人がものすごい存在感です。特に夫のブレンダン・グリーソンという俳優。無口で実直、頑固で表情を表に表すことのない職人という役そのもので、妻のエマ・トンプソンも良いし、前半で出てくるヒトラーユーゲントの青年なんか、僕がイメージするそのまんま 笑) タレコミやの男やユダヤ人の老婦人なんかも素晴らしいです。
ただゲシュタポの警察官をやったダニエル・ブリュールは「グッバイ・レーニン」の好青年やドイツにサッカーを伝えたコッホ先生役のイメージが強すぎて、口ひげつけてもやっぱり童顔だし、僕としてはもっと強面(こわもて)の役者の方が良かったんじゃないかって思うんですけどね 笑)
最後に、まあ、どうでもいいのだけど、やっぱり一言。ドイツを舞台に、出てくる新聞や、キーになる葉書の文字も、そして遠くでスピーカーから流れる言葉もすべてドイツ語なのに、会話だけが完全に英語というのは、やっぱりかなり違和感です。まあ、字幕に集中しちゃえば、あまり気にならないんですけどね 笑)

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