「ソラリス」、「アンドレイ・ルブリョフ」、「鏡」、「ローラーとバイオリン」と「僕の村は戦場だった」、「サクリファイス」ときて、これで最後。昨日は友川カズキライブの打ち上げで午前様、睡眠時間が足りてないので、むちゃくちゃ不安だったんですが、今日の仕事は午前中だったので、1時半からの回で見てきました。先に正直に言っておくと、途中、3人が休憩しているシーンで一瞬意識を失いました 苦笑)
タルコフスキー映画でおなじみのシーンや物がたくさん出てきます。ガサガサした壁や円形に対するこだわり。登場人物たちは例によってやたらと転ぶし、のたうちまわる女の姿はソラリスやサクリファイスでもおなじみです。事物がまるで偶然のように落下するし、主人公らに忠実な犬の姿もおなじみ。
よくわからないものが浮遊している水たまりや、首まで浸かりながら渡る池、焚き火や風、ソラリスでも鏡でもノスタルジアでも出てくる丘から見下ろす川と森の風景。そしてサクリファイスで最初と最後に流れるバッハのマタイ受難曲のアリアが、突然口笛で吹かれたりします。さらに、「ルブリョフ」の冒頭のエピソードや「ソラリス」のステーションでもおなじみの男3人組。
今回久しぶりに見て、舞台の背景に原子力発電所がなんども出てくるのに気がつきました。この映画ができたのはチェルノブイリの6年前、フクシマの30年以上前のことです。
ストーリーは広範囲に汚染された?ゾーンと呼ばれる立ち入り禁止区域の奥に人間の願いを叶える部屋があると言われ、そこへ、案内役のストーカーと作家と教授の3人が向かうという話。
この3人を今回こんな風に見立ててみました。つまり、ゾーンは神でストーカーは聖職者。神なるゾーンの信奉者であるとともに伝道者でもある。それに対して、そんなものはありゃしないと絶望している作家と、そんなものは権力者に悪用されるだけだから破壊すべきだと主張する教授という図式。宗教的なイメージなのは、ラスト近くで作家が頭にいばらの冠をかぶるシーンでも、おそらく間違いないだろうと思うのですが、こういう風に決めてしまうのは、愚かなことだと言われるのは承知の上で、あえて遊びで 笑)
映像的には、セピア色の白黒、まるで墨のようなコントラストの強い最初のシークエンスと、ゾーンに入ってからの目に鮮やかな緑の自然の対比もすごい。トロッコに乗ってゾーンへ向かう3人のアップの白黒画面が終わると、バアンと音でもしたかのように鮮やかな緑の風景が、突然映し出される時の衝撃。さらに、ゾーンの建物に入った後の色彩を抑えた室内の画面。ただし、そのどのシーンもが、非常にゆっくりとしたテンポで眠気を誘ってきます 笑)
しかし、願いを叶える部屋が近づくと緊張感が高まり、眠気は吹っ飛びましたね。 暗く不気味な丸い廊下から、非常に印象的な砂丘のような不思議な広間を超えて、大小のフラスコ状のものがたくさん浮いた水たまりのあるゾーンの前室。そしてそこに座り込む3人の前に広がる水たまりの願いを叶える部屋に雨が降り出すシーン。どのシーンを切り取っても映像としての美しさがあるし、どの事物にも意味ありげな謎めいた魅力があります。
最後のシーンの奇跡は、タルコフスキー映画では最初の「ローラーとバイオリン」からこの「ストーカー」まで一貫しています。どの作品でも最後には奇跡が起きます。 「ローラー〜」は家から出られなくなった少年は想像の中で青年に会いに行き、「僕の村〜」ではイワンは妹と水辺でかけっこをします。「ルブリョフ」は無言の行を終了して、傑作イコン群を残すし、「ソラリス」では過去をもう一度やり直そうとするし、「鏡」では死んだ小鳥が生き返り幼年時代へ飛んでいきます。
その意味では「ノスタルジア」と「サクリファイス」はちょっと変わったと思えますね。 「ノスタルジア」の最初の方で自分だけのための美はもういらない、と言うシーンがありますが、これがある意味で象徴的なセリフではないかと思えます。 そして、この「ストーカー」の前と後で、タルコフスキーの「願い」が個人的なものから、もっと全人類的なものに変わっているのではないでしょうか。
こんな風にシーンを言葉にしても詮無いものがあるし、話を何かのアレゴリーだと解釈するのも、この映画をつまらないものにしてしまうのかもしれません。映画というものを言葉で語ることの虚しさを強烈に感じさせる、ものすごい映画だと思います。

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