この映画については前にもちょっとだけ触れたことがあった。 初めて見たのは1981年。その時は予備知識もほとんどなく、映像の美しさやゆったりとしたテンポの心地よさに魅了されたけど、悲惨な時代に芸術家であることの意味に苦しんだ画家が、いわば「飢えた子の前で文学に何ができるか」というサルトル的な絶望を感じ、一旦は筆を折りながら、それにもかかわらず再び絵を描くことを決意する話だと思った。多分、それは外れてないと思うが。
ただ、その後なんども見てきて、主人公ルブリョフはタルコフスキー自身が、かなり露骨に投影されていることがわかってきた。例えば、ルブリョフに対する同僚の批判「確かに絵は上手だ、しかし彼には信仰心が欠けている、単純さが足りない」などという言葉は「確かにいい映画を作るが、彼には政権に対する従順さが欠けている、そして映画も単純さが足りない」という意味だろう。たぶんタルコフスキーの第1作「僕の村は戦場だった」に対するソ連当局の批判であったことは間違いない。
この映画を見ると、いつも、「乏しき時代の詩人」という言葉が思い浮かぶ。ハイデガーという哲学者の本の題名だけど、内容はともかくも、この題名には心惹かれるものがある(昔アマゾンレビュでこの映画について書いた時にもこの題名を使ったことがある)。
この時代の悲惨さは映画全体を通して繰り返し描かれる。最初の旅芸人のエピソードでも、ちょっとでも反権力的な言動を人前で行えば、すぐに捕まってしまう。また、権力者の兄弟げんかに端を発して、弟がタタール人に援軍を頼んだせいで、町は蹂躙され、一般市民が虐殺される。教会に逃げ込んだ市民が虐殺されるシーンは、この映画の20年前に、現実にナチスの手で同じようなことが行われたことを思い出させる(「炎628」)。このエピソードは、スターリンが自分の権力を守るために粛清の嵐を吹き荒れさせている間にナチスが攻めてきたことを、見た人に連想させたことだろう。
異教の祭?(=反体制運動)の翌朝、村人たちは官憲に一網打尽にされる。その時、前夜ルブリョフを助けてくれた女は裸で川に飛び込み、いわば「亡命」していく。それを芸術家の特権で川の上を船で下っていくルブリョフが暗い顔で見送る。プロローグの気球で飛ぶ男も、ある意味で「亡命」未遂の暗示かもしれない。僕は1980年代初めに、タルコフスキーが亡命したというニュースを聞いた時、思わず、タルコフスキーも裸で川を渡ってしまったのだなぁ、とこのシーンを思い出した。
こうした中世ロシア(=スターリン時代・ソ連邦時代)の悲惨な状況の中で、体制の命令によって絵を描く(映画を作る)芸術家の苦悩を考えれば、この映画は分かりやすくなるだろうと思う。しかも、同じ芸術家同士の間でも嫉妬や妬みがあり、また師匠は筆洗いしかさせず、なかなか絵を描かせてくれない。この師匠はフェオファン・グレクという実在のイコン画家だけど、タルコフスキーを当てはめると、エイゼンシュテインあたりになるのだろうか?
最後の鐘を作る少年のエピソードでは、この少年がタルコフスキー自身なのではないか? 少年をはじめとする職人集団は文字通り映画を作るスタッフの集団だろう。様々な内輪での争いがあっても、最終的に少年の元で結束して巨大な鐘を作ることに成功する。その鐘は確かに権力者のために作ったものではあるが、それは結果に過ぎない。同時に、この少年が全て終わった後、実は自分は誰からも鐘の作り方を習っていなかったと告白するけど、これも、タルコフスキーはソ連の監督からは何も学ばなかったという意味に解釈できそう。こじつければ、先の師匠のフェオファン・グレクも史実ではギリシャ人、つまり外国人だ。すると、彼はエイゼンシュテインというよりも、むしろイングマール・ベルイマンや黒澤明あたりをイメージした方がいいのかもしれない。タタールが街を襲うシーンなどは七人の侍を意識しているだろうと思われる。
かくして、ルブリョフは、誰のためでもない、鐘を作ることそのものを目的にしたかのような少年の姿を見て、自らも、長い無言の行の後、再び絵を描くことを決意する。おそらく神のために描くことを。最後、これでもか、と言うぐらい長い時間をかけてルブリョフが残したイコン画が、延々とアップになって映った末に、映画の冒頭倒れた馬が、雨の中で平和そうに水辺で草を食むシーンで終わる。
だけど、こうやって何でもかんでもこじつけて、一つの比喩に固定してしまうことで、この映画がつまらないものに見えてきそうな気もする。むしろ、あちこちに出てくる映像のすばらしさだけに集中してもいいんだろう。例えば、旅芸人が捕らえられて連れて行かれるシーン、手前に3本の木があって川むこうを官憲の馬が3頭歩き、手前をルブリョフたち3人が歩いていくシーンの美しさ! あるいは想像の中で、雪の(!)ゴルゴダの丘へ向かうイエスとマリアらの、ブリューゲルの絵のような風景。あちこちで出てくる俯瞰のアングルの映像。焼けた教会の中に降る雪。その焼けた教会の中で師匠のフェオファンの幽霊?との会話シーンの、画面の外を意識させるような不思議な雰囲気。
主人公をやったアナトリー・ソロニーツィンや仲間の画家をやったニコライ・グリニコは、この後の「ソラリス」「鏡」「ストーカー」でも出てくる(グリニコは前の「僕の村は戦場だった」でも出てくる)し、その他の旅芸人も裏切り者のキリール役の俳優もみんなものすごい存在感だったが、特に知恵遅れの娘と、タタール族の首領が、それぞれ強く心に残る。

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