先日「地球が滅びる時に見ていたい映画」を書いた時に書いた「鏡」、先日のソラリスに引き続き渋谷の映画館で見てきました。今回は一昨日すでにネット予約しておいたので、ど真ん中の席を確保できました。ほぼ9割がたいっぱいでしたね。
デジタルリマスター版ということで、画面がとても綺麗なのと同時に、字幕が以前見たのとは違っていました。以前に比べてちょっと説明していて、分かりやすくなったかなぁ。例えば、以前なら、リビャートキン大尉の妹、スタヴローギンの奥さん、わかるわよね? フィヨードル・ミハイルヴィッチ? というシーンが「悪霊」のリビャートキン大尉の妹、スタヴローギンの奥さん、ドストエフスキーよ。となっていました。
冒頭の吃音症の少年の画面はいうまでもなく「私は話せます」という言葉がキーだし、冒頭の夢のあと、母からの電話で謝ろうとすると母が電話を切ってしまう後のシーンは主人公の母に対する気持ちがそのまま映像になっているシーンだと思います。つまり母に腹を立てているから、突然雨を降らせて母をずぶ濡れにし、リザベータに母を批判させ、最後はシャワーの水も出してやらない。途中も夢のような空想のようなシーンが次々に出てきますが、主人公以外の登場人物、例えば息子のイグナーツの空想だったり、時空を超えて現れた謎の女性がいるところへ老いた母が訪ねてきて、あら、部屋を間違えたわ、というシーンはまさに母が時代を間違えて現れてしまったということでしょう。こういう時空を超えたことは、映画だからこそできるのです。
最後のシーンは、そうした様々な悔恨を抱え込んで寝込んでいる主人公が、それでも、どうにかなるさと言いながら、死んだ小鳥を投げ上げると、小鳥は蘇って幼年時代へ戻っていく。このシーン、バッハのヨハネ受難曲が流れ、何度見ても目頭が熱くなります。今回もそうでした。最後の森の中へと引いていくのだって、フロイト的だと言われるかもしれないけど、母体回帰のイメージです。
それにしても、普通はどうにかなるさ、と言ってもどうにもならない、死んだ小鳥は生き返らない。それなのに、どうにかなるさ、と言って小鳥を生き返らせることができるタルコフスキーはなんとも幸せな人だな、と思います。

にほんブログ村
- 関連記事
-
スポンサーサイト
trackbackURL:http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/tb.php/2874-e00370f1