渋谷の映画館、満席の中、最後から3人目の順番で見ることができた。
この映画を初めて見たのは1978年の夏のことだった。その時は先に原作を読んでいて、すっかり原作に参っていたから、メモには、原作の雰囲気はあるけど、よく分からない変な映画だったとある。その後、20世紀に6回映画館で見た。21世紀に入ってからは、おそらく映画館では見ていない。TVやCSでは何度か見ていると思うが。。。
2001年宇宙の旅と並び称される古典的SF映画の金字塔というのが、この映画に貼られたレッテルである。でも今回見てみて、この映画にSF映画のレッテルを貼るのは間違いだろうと思う。原作の設定がものすごく観念的なニューウェーブSFなんだろうけど、この映画はタルコフスキーの個人的な事情がかなりはっきりと出ている。このSF小説をネタに、監督は自分の個人的な思い出を語っている。
確かに、ソラリスステーションにいる(いた)4人は過去に対して人はどう対応するか、を示す4つのタイプに分類できそうだ。1)自殺したギヴァリャンは過去(罪)に耐えられなかったタイプ 2)過去(罪)を科学的な態度と称する客観的な見方で分析して乗り切ろう(やり過ごそう)とするサルトゥルリウスのタイプ 3)過去(罪)を仕方がないものとして諦めるスナウトのタイプ 4)過去(罪)を受け入れ、やり直そうとする主人公ケルヴィンのタイプ。
変な連想だけど、
少し前に読んだ清水潔の南京事件の本のことを思い出した。単純にレッテルを張るつもりはないけど、南京事件の証言をした(しなかった)元兵士たちはどのタイプなんだろう? そしていうまでもなく、僕は??
あるいは前半の延々と長すぎるのではないか、と思えるような地球の自然描写。そしてやはり長すぎるんじゃないかと思える首都高速。タルコフスキーがわざわざ日本まで来て撮影したのだとソ連当局にアピールのために、あれだけ長く、あの単調な映像を入れたことが、タルコフスキーの日記から分かるそうだが、でも、結果的には、自然から文明(高速道路)に移り、文明の末路のようなゴミだらけの汚い宇宙ステーションに移動した末に、作り物の自然へ戻っていくという図式を考えると、あの高速道路の単調な映像も必要だったのだろうと思える。
だけど、そんなことより、今回見てて、後のタルコフスキーの映画をいくつも連想させるシーンが、すでにこの映画の時点で満載なのが気になった。例えば、あの故郷の家の感じはサクリファイスの燃える家に似ていたし、その庭から見える谷の風景はノスタルジアに出てくる思い出の風景に似ていた。それは鏡の風景にも通じるものがあった。この映画の本題とはまるで関係なさそうな母親と妻との葛藤の話題も、そしてその二人が似ているのも、鏡の中で描かれるのと同じだ。
つまり、タルコフスキーという監督は極めて個人的なことを、作る映画の中に押し込んでいて、それが普遍性をもつように作っているのである。
全くむちゃくちゃな連想だが、この極めて個人的なことを作品に込めて、それが普遍性をもつ、誰もがそれを自分のことのように感じるようにできる点で、友川カズキを思った。
至福の数時間だった。

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