自己責任という言葉が嫌いである。特に政治家や役人からこの言葉が出てくると、一瞬殺意すら覚える(ちなみに私は死刑に反対 苦笑)
誰かが書いていたのだが、この自己責任という言葉は20世紀には広辞苑をはじめとした辞書には載っていなかったそうだ。確かに、調べてみて驚いたのだが、全10巻の小学館の「日本国語大辞典」昭和55年版にも載っていない。
なぜ嫌いか? 僕の感覚ではこの言葉には弱者を切り捨てて顧みないようなものが感じられるのである。だけど、僕が嫌いでたまらないこの言葉、世の中では結構この言葉が好まれているような気がする。要するにわかりやすいのである。自分で決めて、自分でその結果を負う。そこには何か潔さのようなものが感じられる。
同時に何か困った状態に追い込まれた人を、この言葉を使うことで、突き放すことができる。少なくとも、俺の責任ではない、だから俺は知らないと安心できるのである。
すべてを自己責任としてしまえばわかりやすい。それぞれの人が他人の権利を侵害しない限りにおいて、何をしてもいい、その代わりその結果には自分で責任を負う。すっきりしていて、実に分かりやすいけど、ことはそう簡単ではないだろう。そもそも他人の権利を侵害しない限りっていうことの定義は難しい。これがすっぱり分かりきったことだとしたら、裁判所なんか不要だろう。それどころか「国」だっていらなくなるだろう。
ところで、本来人間というのは、他人が幸せそうにニコニコしているのを見ると、自分も幸せになるものではないだろうか? 他人の不幸を喜ぶのは、その人の「性格」の問題ではない。その人の置かれが状況が不幸だからなんだと思う。なんか抹香臭いエセ教祖みたいな台詞で面映いものがあるけれど。
21世紀に入って、競争社会が一気に加速した感じだ。みんな遅れまいと必死な感じがする。競争だから絶対に遅れる者は出る。だけど、他人に構っていたら自分も遅れてしまうかもしれない。だから遅れた者は放っていく。その時にそういう自分の負い目を軽くしてくれる言葉、それが「自己責任」という呪文ではないだろうか。遅れたやつが悪いのだ。努力が足りないだけなのだ。遅れるのは自己責任だ。
でも先に書いたように、人は本来困っている人がいれば助けたいと思うものではないのだろうか?
遅れた者にも努力不足とか自己責任なんていう言葉で説明できない理由があるはずだ。そもそも子供の貧困率が異常に上がっている現在、競争のスタートラインすら既に大きく違っているのだから。
僕は一般の人たちが「自己責任」という言葉を使うのは、何か逆の意味での悲痛な叫び声のような気がするのである。この言葉で自分自身を納得させざるをえない時代状況に対する叫び声。本来、この言葉はおかしいよ、としっかり言ってもらいたがっているのではないか、そんな気がするのである。
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このテーマについては、まだまだ、ねれてないけど、個人的に今ちょっと忙しくて、また続きを書くと思います。今回の記事は少し前に書いた
「すでに国の体をなしてない」という、復興大臣の発言批判の記事にコメントを書いてくれた方とのやり取りから考えたことです。「自己責任」という言葉についてはもっとしっかり考えてみたいと思っていたし、まだこれからも考えていくつもりですが、まずはコメントを下さった方に感謝するとともに、そのあと、別の形でコメントを下さった常連のミニさんの文章が秀逸なので、このテーマに関心がある方は是非お読みいただけたら、と思います。
「すでに国の体をなしていない」の記事へ
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