このところ、フリッツ・バウアーという、戦後ドイツでアイヒマンを追いかけ続けた検事の出てくる映画を3つ見た。ここでも紹介した
「顔のないヒトラーたち」、ツタヤで借りてきた「検事フリッツ・バウアー ナチスを追い詰めた男」
そして今上映中の上の映画。
これらの映画を見て思うのは「顔のないヒトラーたち」でも書いたことだけど、やっぱり日本にはフリッツ・バウアーがいなかったというのが残念だった、ということだ。東西冷戦の中、アメリカは共産主義ソ連に対抗するために、西ドイツでも日本でも保守的な政権を望んだ。それに乗じてドイツではナチ残党が、日本でも軍国主義者たちが政府や民間企業でも要職に就くことができたわけである。そんな中で南米へ逃げたアイヒマンを逮捕する術(すべ)を模索し、アウシュヴィッツで残虐行為を行った者たちを裁く裁判を始めたのがフリッツ・バウアーだった。あえて強引に日本に当てはめれば、例えば、人体実験で細菌兵器の開発を目指した731部隊の関係者を訴追したようなものだろうか。
「顔のないヒトラーたち」では主人公の若い検事が、周囲の敵意の中、孤軍奮闘しながら、アウシュヴィッツの死の天使と呼ばれたヨーゼフ・メンゲレを捕まえようとする。そして、主人公の上司として登場し、主人公に、徹底的にやれ、と後押しするのがフリッツ・バウアーだった。
さらに「検事フリッツ・バウアー」ではまさにバウアー自身が主人公で、アイヒマンを捕まえるために東ドイツ検察やイスラエルの諜報局モサドとつかず離れずの微妙な位置を確保しながら、ナチスの残党が跋扈するドイツの検察や情報部と対決し、さらには首相アデナウアーの側近で元ナチの大物グロプケを裁判にかけようと奮闘する。
「アイヒマンを追え」でもほぼ同じで、アイヒマンを捕まえようとするフリッツ・バウアーがモサドと駆け引きするが、こちらでは東ドイツ検察との関係は出てこない。むしろ、「検事フリッツ・バウアー」より以上に元ナチの連邦刑事局や検察内部の元ナチの悪辣さが強く出ている。
この二つの映画はほぼ同じ時代を扱っていて、登場人物にも事件の推移にも、バウアーのセリフにも重なるところがいくつも出てきて、その点でも面白い。そしてどちらの映画でも(「顔のないヒトラーたち」も)バウアーが信頼する部下がフィクションである点も共通している。
「検事フリッツ・バウアー」では検察の腹心の部下が実はドイツ情報局に情報を流していたという設定で、「アイヒマンを追え」では、同じく腹心の部下が同性愛者(バウアーもそうであることはどちらの作品でも大きく扱われているが、当時同性愛は法律上禁じられていた)で、その情報が連邦刑事局に知られることになる。
東西冷戦体制の中、ナチス時代には何度も殺されそうになった反ナチスのアデナウアー首相は、元ナチスの大物グロプケを確信的に側近にしていた。東ドイツはここを突いて、保守派のアデナウアーを失脚させようと目論む。アメリカも、アデナウアーが失脚して東ドイツに付け込まれるのは困るので、元ナチを断罪するどころではない。
一方、国が出来て間もないイスラエルも、アラブとの戦いで手一杯で、元ナチを追求することに熱心ではない。むしろ、ドイツから援助金や武器を提供してもらいたがっているから、変にアデナウアーを刺激したくないわけである。
前に書いた
「ジェネレーション・ウォー」で、主人公の5人組の一人だった歌手志望の娘を弄んだ挙句に収容所送りにして殺したナチの高官が、戦後アメリカ軍の元で仕事をしているシーンが出てきた。結局この男は映画の中では何らお咎めなしだった。あのシーンは、つまり、実際の戦後ドイツの姿だったわけだ。そして、このフリッツ・バウアーをはじめとした若手の検察官たちによって、アウシュヴィッツ裁判と呼ばれる一連の元ナチの親衛隊員たちのアウシュヴィッツでの残虐行為を裁く裁判が行われて、ドイツ人は過去と向き合うことになり、現代のドイツがある、ということになる。では日本は?
ただし、これでドイツすごい! フリッツ・バウアーすごい! と手放しで称賛するわけにはいかない。少し前に紹介したティモシー・スナイダーの「ブラックアース」によれば、アウシュヴィッツ以外の方がユダヤ人やポーランド人、スラブ人の殺害数は圧倒的に多かったという。「ドイツにとってアウシュヴィッツは、なされた悪の実際の規模を著しく小さなものに見せるので、比較的扱いやすい象徴であり続けている」。アウシュヴィッツだけを問題にするのなら、その他の犯罪的行為を不問にすることになる。ただ、それでも日本と比べれば雲泥の差なのは言うまでもない。

にほんブログ村
- 関連記事
-
スポンサーサイト
trackbackURL:http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/tb.php/2782-2822cc9e