ナチスの時代、東欧に送られた看護師や秘書、あるいは親衛隊員の妻たちが、その地で行われたユダヤ人をはじめとする人々の大量虐殺にどのように関与したかをテーマにした本。これまでの、ナチ時代の女性たちは何も知らなかった、あるいは被害者だったというイメージを完全に覆す内容で、かなり衝撃的である。
結局、人は、職業や宗教や、受けた教育や生まれながらの性格などにかかわりなく、そして、驚くべきことに、性別すらも関係なく、状況(環境)次第によって、そして機会を与えられれば、残虐なことをいくらでもできてしまうのである。この本の中に出てくる女性たちの何人もが、虐殺を知っていただけでなく、その場に立ち会ったり、中には自らの手でユダヤ人の少年たちを撃ち殺したりした。しかも撃ち殺した子供達と同じぐらいの年齢の子の母親だった者もいた。そして、そうした殺人者たちは、女性であったが故に、戦後ほとんどが罪に問われることがなかった。
それどころか、彼女らの戦後の発言を見る限り、以前書いたことのある
ジョナサン・リテルの「慈しみの女神たち」の主人公アウエのような、自分の過去を真摯に見直すような者はいなかったのだ、と言わざるをえない。彼女たち(に限らず、「彼ら」もだろうが)は忘れたのである。過去の自らが行った悪魔のような所業を忘れ去ってしまったのである。
しかし、おぞましい話ばかりである。例えば、これは女性ではないが、東欧でユダヤ人の大量虐殺に従事した親衛隊将校は、その晩の日記に、「愛しいトルーデ」に宛てた手紙形式で、「こんなにも愛しているのに、(彼女の素気無い手紙に対して)なぜこんな目に遭わなければならないのか」(174ページ)とつづる。恋人を胸が張り裂けそうなほどに愛している若者が、その日の昼間に何百人ものユダヤ人の女子どもや老人を銃で撃ち殺していた。これをどう考えればいいのだろう。
戦後のナチ犯罪を追及した検事はこう言う。「個人が狂っていたのではない。正気でなかったのはナチ体制の方だった」彼は「加害者の多くが罪をおかしたと確信していたが、同時に、彼らはもはや社会に対する脅威ではないと結論づけた。」(204ページ)
つまりこういうことだ。状況次第で、機会さえ与えられれば、善良な普通の人がジェノサイドの加害者になりうる。手前味噌じみているけど、これは拙ブログがずっとテーマにしてきたことだ。99.9%の普通の人と0.1%の悪人がいるわけではない。普通の人がとんでもないことをしてきたのが人類の歴史なのだ。これを意識しておくことは大切だと思う。特に今のような時代では。環境によっては、僕だってあなただって、何か飛んでもない「悪」をなすかもしれない。クリント・イーストウッド監督の映画じゃないけど、正義の味方なんていないし、悪の化身もいない。だからこそ、そういうナチ時代のような社会を否定しなければならないのだと思う。

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