今日は表題の映画を見てきました。帰ってくると、イギリスはEU離脱だそうで、正直に言って、それがどういうことにつながるのか、よくわかりませんが、離脱への意志に難民敵視の気持ちがあるのだとしたら、ちょっと不安になります。まさにこの映画のラストみたいな感じ。
しかしこの映画、新宿のシネコンで見たんですが、かなりの入りでした。原作は出てすぐに読んだけど、正直に言って、まるで面白くなかった。世間で言われているほど笑えなかったし、そもそも既に内容をほとんど忘れていた。
なにしろその後、
ジョナサン・リテルの「慈しみの女神たち」とか
メルルの「死はわが職業」とかギッタ・セレニーの「人間の暗闇」、
ファラダの「ベルリンに一人死す」、
ナゴルスキ「ヒトラーランド」や、
他にもたくさんのナチものを読んだからね。そうしたものを前にしたら、全然ダメだよね。
ところが、映画は結構面白かった。まあ、映画も本も面白くなければ拙ブログはスルーするのがモットー。間違っても貶すためにわざわざ書くなんてことはしないつもりなんだけどね。 まあ、面白くても書けないものもたくさんあるけど 笑)
映画は後半がまるで原作とは違うのと、原作(文字)とは違う映画(視覚的)特有のギャグがあって、特に「ヒトラー最後の12日間」のパロディは、実は2週間ほど前にこの映画を見直したばかりだったので、思わず笑い声が漏れるぐらい笑ってしまった。きっとドイツ映画では初めてのことだわ。
エンツェンスベルガーという詩人がいる。ある時期には次のドイツ語圏のノーベル文学賞はこの人だと言われていたこともあった。この人の詩に「あるスパイの肖像」という詩がある。2、30年ぐらい前に読んで、ある意味で、今の僕の人間観に影響を与えたものの一つなんじゃないかと思っているんだけど、残念ながらネットで調べても日本語では引っかからない。人文書院の「エンツェンスベルガー全詩集」には載っているけど。
この詩では、ある29歳の「芸術家風の髪型の」男が、上司や共産党員や女たち、家主や自分自身を憎みながら、スーパーで売り物のマーガリンを握りつぶしたりしながら、指の爪を噛みながらブツブツぼやいている。最終節は「この男は決して立派なことを成し遂げないだろう、シュニットラーとかいう名前だと思う、シュニットラーだかヒットラーだか、そんなような名前だ」(アンコウ訳。ちなみに最後のヒットラーはヒトラーと綴りが違っています)
僕はこの詩を読んだ時、若き日のヒトラーが不満だらけの人生で、恋人もなく、将来のあてもない「普通の」人間として書かれていることにちょっとショックを受けた。普通の、僕らと同じ人間ヒトラー。
例えば、これも話題になった「ハンナ・アーレント」という映画があったけど、ここでもアーレントは悪のモンスターとされたアイヒマンを「凡庸な悪」として、ユダヤ社会から大バッシングを受け、友人たちを失う。
だけど、そのアイヒマンの裁判を写した「スペシャリスト・自覚なき殺戮者」で出てくるアイヒマンを見ると、扱われていることが何十万ものユダヤ人の虐殺につながる行為であることを考えなければ、普通の公務員、いやむしろ誠実で有能な公務員なのである。おぞましい話ではあるが、上司から言われた自分の任務を「誠実に」果たしたことを誇ってさえいるようなのだ。多分、ドイツにも日本にも、どこの国にもいる「誠実で有能な役人」。
今の日本の社会だって同じである。何か凶悪なことをした人間は怪物でなければならないのである。そうでなければ「普通の」「凡庸な」僕らは不安になるのである。凶悪なことをする人間は普通であってはならない。だから凶悪犯の異常さをマスコミも煽るし、特に凶悪そうに見える写真を探す。そして僕ら「普通の」「凡庸な」人間は悪とは無縁だと納得する。でも、本当は誰だってそういう悪を秘めているんじゃないのか。
いや、同じことは逆の方向性でも言えるんじゃないだろうか。つまり、時として我が身を捨てた英雄的な行動をする人がいる。でも、そういう人は特別な人ではないんじゃないか。誰にでもそういう英雄的資質はあるのではないか? ああいう人たちは「普通の」「凡庸な」者とは違う特殊な、すごいやつなんだ、俺とは違うんだ、と線引きしてはいけないのではないか?
普通の人には英雄的な「善」をなす要素も、悪魔のような「悪」をなす要素も両方あるんじゃないのか、それが時代や環境や場所によって、あるいは極限状況に置かれることによって、出てきてしまうのではないか、と、まあ、そんなことをつらつら考えながら帰ってきたわけです。このエントリー、きっと書き足すでしょう 笑)

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