この本には現代の日本のことは一言も述べられていない。しかしこの本を読み進めて、あとがきの最後の最後に「本書を手にした方々に何がしかの意味を読みとっていただけたら、この上ない喜びである」とあるのを読んで、この著者がこの本を今書いたことの「何がしかの意味を読み」とれない人はいないだろう。
絶大な人気を誇ったヒトラーに対して抵抗した個人や組織とその顛末を紹介した本である。拙ブログではこの本の中に出てくる孤独な暗殺者
エルザー と、
抵抗大学生の「白バラ」や国防軍によるヒトラー暗殺計画「ワルキューレ作戦」 のことは映画がらみで紹介したことがあるし、この関連の本も何冊か読んでいたけど、これまで考えたことがなかったようなことを教えられた。
ようするに、彼ら抵抗者たちは高潔な悲劇の英雄で、人々の記憶の中で賞賛や賛嘆の的になっているのだと思っていた。いや、「思っていた」というところまで意識化していなかった。失敗に終わり死んだとしても、彼らがドイツの歴史の中に燦然と輝いていないはずがなかった。こうした抵抗運動に対して一般ドイツ人たちがどう見ていたかなど考えたことなどなかった。
だから、特に「ワルキューレ作戦」でヒトラー爆殺が失敗に終わった後、ヒトラーへの同情と首謀者達への憤激が渦巻いたそうで、しかもそれは戦後になっても続いたというのには驚愕した。1951年の世論調査でも、このときの首謀者を悪いと評価する人が30%もいたのである。
だから、映画では描かれていなかった終戦後の遺族たちの苦労も想像外のことだった。そこには処刑された首謀者の子供同士が結婚したという感動的なエピソードもあるが、ドイツの敗北後、ナチスの残虐行為が明らかになった後も、「裏切り者」の親族と罵声を浴びたりするし、一方の戦勝国である連合国やソ連も、ドイツ国内に反ヒトラーの抵抗運動があったことは無視しようとする。冷戦構造の中でアメリカもソ連も反ナチの抵抗者たちが戦後のドイツで自分たちにとって都合の悪い影響力をもつことを恐れたのである。
それに対して、ヒトラーを熱狂的に支持したドイツ人たちは、抵抗者の存在によって自分たちの負い目をより強く感じさせられることを嫌ったのだろう。このあたりの心理は実にドストエフスキーあたりの小説に出てきそうな屈折したものがあると思う。
幸いにも現代の日本は「I am not ABE」と公然と言っても収容所に入れられたりしないが、この時代の抵抗者たちはヒトラーのではない「もう一つのドイツ」のために命をかけ、そしてその多くが命を失った。彼らが名誉を回復するのは死後だいぶたってからである。今の日本なら、国会前にいったり、こうしてブログに「アベ政治を許さない!」と書いたりできるけど、あの時代だったらどう行動できただろう? ボンヘッファーが言うナチズムに異議を唱える「市民的勇気」を持つことができただろうか?
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