今朝の斎藤美奈子のコラム(東京新聞)も扱っていたが、一昨日の日韓慰安婦問題合意のニュース。どうにも気持ちが晴れない。むろんとりあえず合意したというのは良いことだと思う。あの安倍が「おわびと反省」と言っただけでも、まあ良かったと思う。
しかし、気分が晴れない理由は、安倍がその後に言った「私たちの子や孫、その先の子供たちに、謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」という言葉だ。ここには国というものと個人との、なにか巧妙なごまかしがあるような気がする。
戦後生まれの僕らが個人として謝る必要がないのは当然だと思う。そもそもが子や孫は今回の合意がなくても謝罪し続ける宿命を背負ったりしない。立場を変えればアメリカの若者に原爆を落としたことを謝ってもらいたいとは誰も思わないだろう。しかしニッポンが「国」としてやった理不尽なことをニッポンという「国」が、もう謝りませんと宣言するのはおかしくないか?
昨今の「愛国」という気色の悪い言葉に代表されるように、権力者ではない僕らは、まず「個人」であるはずなのに、「国」基準で物事を大所高所から語りたがっているという、なにか勘違いしちゃった奴が多くて、国が謝ったらまるで自分が謝っているような錯覚をしているんじゃないのか、そう思えてしょうがない。国への帰属意識が強すぎるとあまりろくなことにはならないような気がする。特にニッポンは世間という「同調圧力」が強いだけに。もっとも権力者としてはそれを願っているんだろうけど。
上で僕は個人として謝る必要はないと書いたけど、むろん知る必要はある。知っておく必要はある。上記の例で言えば、アメリカの若者に謝ってほしいとは思わないけど、もし彼がアメリカという国がかつて戦略的に無意味な二つの都市に原爆を落としたことを知らなかったらどう感じるだろう?謝らないのは知らなくて良い、忘れて良いという意味ではないと思う。知らなければ、忘れれば人はまた同じことを繰り返す。
「ひとびとはもうなんどもクニに捨てられているというのに、「便所の蠅のやう」に、クニにへばりつく(。。。)どうしてひとというのはなにごともいちいちゼロから学ばなければならないのだろうか、歴史はなぜ前代の反省と学習をひきついで後代に活かそうとしないのか。どうしてひとはこうまで歴史的経験からしゅっぱつすることができないのか」辺見庸「1☆9☆3☆7☆」(359ページ以下)

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