アップしようと思いながら、なんだかんだでタイミングを逸してしまいましたが、せっかくなので。24日の夕方の月の出です。住んでいるマンションの玄関前から。

というわけで今日は辺見庸の本の紹介。
すでにこの辺見庸の本が雑誌連載中から読んでいた。そこから知った
堀田善衛の「時間」を以前紹介した。あのときはこの小説は絶版だったが、この間に辺見の解説付きで岩波現代文庫から出たのでリンクを張っておく。
さて、辺見庸のこの本だ。加筆されて書籍化されたのであらためて読み直した。読み終わってあらためてひどく心が動揺している。ぱらぱらとページを繰るとほとんどどのページにも赤線が引いてある。
題名は日中戦争が始まった年。この年にはヘレン・ケラーが来日して大歓迎されている。一方12月には南京大虐殺が起きている。拙ブログのモチーフの一つでもあるけど、世の中には99.9999%の普通の人と0.0001%の悪人がいるわけではない。ヘレン・ケラーに感動し、講演中に彼女の財布が盗まれたときには日本人として詫びる手紙を書いた人々、その同じ人たちが南京を始め中国大陸で「人間の想像力の限界が試される」ような大虐殺をし、国内ではそれを祝って提灯行列が大々的に行われた。
だが辺見庸は中国大陸で「皇軍」が行った非道を単に「他者の悪事として非難」(p.126)するのではない。まずは「そのとき、その場にあったら、わたしもおなじことをやったのだろうか」(p.95)と自らに問うと共に、中国へ兵隊として従軍した自らの父の所業に思いを馳せる。戦争だったからしょうがないのだというありふれた言い訳を許さない。そのために、堀田善衛の「時間」や武田泰淳の「審判」という小説や、アウシュヴィッツを生き延びたイタリア人プリモ・レーヴィの「知らずに済ますことが出来ない」という言葉が重要な指標になる。「そのときそこにいなかった者たちは、そのときそこにあったできごとについて、今後とも無記憶でいられるものだろうか」(p.223)という言葉は、単純に自分たちが生まれる前の出来事を知ろうとしない僕らに対する批判でもある。僕らは知らずに済ましてはいけないのだ。
一方で小津安二郎の映画や石川達三の「生きている兵隊」、そしてなにより小林秀雄を著者は批判する。特に小林秀雄に対しては日本的ファシズム、「国民の心底にあるおのずからの全体主義的自覚」を見るところなどは、小林を単なる保守主義者として見る一般的な見方を心胆寒からしめるものだろう。小林の文にあるような無常観に基づいた叙情も天皇制ファシズムに容易に結びつく。
「化石しろ、醜い骸骨!」(p.248)という文句は直接的には阿川弘之に向けられているが、著者自身の中にもある「日本の古層」に向けられているのだろう。「根生いのファシズム」(p.265)と著者が呼ぶ日本的な情緒に向けられているのだろう。
それにしても、「ひとびとはもうなんどもクニに捨てられているというのに、「便所の蠅のやう」に、クニにへばりつく」(p.359)という。「どうしてひとというのはなにごともいちいちゼロから学ばなければならないのだろうか、歴史はなぜ前代の反省と学習をひきついで後代に活かそうとしないのか。どうしてひとはこうまで歴史的経験からしゅっぱつすることができないのか」(p.362-3)。本当にそうだと思う。
昭和天皇ヒロヒトに対する批判(審判)も含め、「被害の責任も加害の責任も、敗戦後70年、まだだれもとってはいない」(p.378)のに、いままた「じんじょうではない」時代になりつつある。
とてつもなく衝撃的な内容だけど、是非赤ペンを手に、ゆっくり読んでみてください。

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