常連コメンテーターのCYPRESSさんから、小津の映画は今ひとつ合わないというコメントをもらったので、ちょっと追加で書いておきましょう。
小津の映画を退屈だというのは理解できます。取り立てて事件も起きないし、話もオチがあるわけではない。たぶん世界中の半数以上の人はそういうかもしれません。また、どの映画も同じで区別が付かない、という意見もありますが、そういう意見があるだろうというのも想像できます。
たとえばCYPRESSさんが触れている北鎌倉駅。ここでのシーンで一番覚えているのが、原節子と誰だったか。。。「お読みになった? チボー家の人々?」という台詞がありました。でも、それがどの映画だったかは全く思い出せない。前のエントリーで書いた「●子さん、あんた何歳になった」「いやですわ、うふふ」も、何となくそんなイメージがあるだけで、どの映画のどのシーンだったかなんて全く覚えてない。そもそもひょっとしたら、そんなシーンなんかないのかもしれません。
でもそれはどうでも良いんだろうと思います。小津の映画は全部が渾然一体となって全部でひとつの世界なんだろうと思う。
俳優の演技もうまいとは言えない、というのもよく分かる。だけど、小津はたぶん俳優から演技の見せ所を奪っているんですよ。原節子が振り向くシーンだけを60回ぐらいやり直しさせられていた、というのを昔の誰か女優のインタビューで見た記憶がありますが、演技をさせないようにしていたんじゃないのかなぁ。いや、よく知らないけど。
例えば今回の「東京物語」でも東山千栄子が亡くなって間に合わなかった大坂志郎が悲しむシーンは俳優なら見せ所なんだろうけど、「そうかぁ、まにあわなんだか」と、なんとも緊張感のない台詞を言わせるだけだし、息子で医者の山村聡から明け方まで持たないと聞かされた笠が同様に、「そうか、おしまいかのう」と言うだけ。
あるいはこれは「秋刀魚の味」のシーンですが、飲み屋で吉田輝雄が佐田啓二に妹との結婚の可能性を問われると、吉田はすでに諦めて別の女と約束してしまったと言いながら、「ちぇっ、もっと早く言ってくれればいいのに」と言った直後に店の奥に向かって「おーい、ビールもう一本」と叫ぶ。最初に見たときは、このシーンで思わずずっこけました。ユーモアというのとも違う。普通なら深刻な、俳優の見せ所だろうと思うところで、実に巧妙に肩すかしを食らっちゃう。
最近の小津関係の本(書評で読んだだけだけど)によると、小津は従軍してどうやらとんでもないものをたくさん見たようです。なのに、映画ではまったくそうしたことは出てこない。せいぜい「戦争は嫌だね」、とか、「馬鹿が威張らなくなってよかった」とかいう台詞ぐらいしか出てこない。
こういう話を読んだり、上のようなシーンを思い浮かべるとき、小津の映画から、聖書の中の「祈るときは異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思いこんでいる。」という言葉を思い出します。

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