ここで著者は倫理を定義して「私たちが共に豊かに生きていくための、侵すべからざる掟」(p.12) だと言う。この掟はたとえ現時点では実現不可能であっても、この掟を目指して社会を作っていくべき理想型である。だから、当然、倫理に社会改善のための特効薬的な効能はない。
一方でこの社会は「共に豊かに生きていく」という理想からはほど遠い、誰かに犠牲を強いることによって「豊かさ」が実現された社会になっている。そうした犠牲を前提にした社会は、最初に述べた倫理の定義からして、当然のこととして正義にもとる社会と言うことになる。
つまり、いわゆる「最大多数の最大幸福」という言葉は、単に、「よりマシな選択肢」(P.45)にすぎないのであって、倫理的に正当化されるべきものではない。現実にはこの社会は誰かを犠牲にせざるを得ないのだが、それを正当化してはならないということである。
そしてこの本のポイントはこれが障害者の視点から語られていることである。これは拙ブログのエピグラムである八尋さんの言葉も同じ視点、同じ方向を向いていると思うのだが、障害者にとって住みやすい社会は、当たり前のことだが、健常者にとっても住みやすいからである。
しかし、ここでは障害者問題だけが語られているわけではない。現在の社会では制度を変革すれば解消できる問題が、しばしば個々の現場の「自己決定」や「自己責任」に押しつけられ、社会が担うべき責任が個人に押しつけられ、犠牲を強要されている。個人の意思を尊重すると言って、実は社会による支援の欠如による犠牲の強要を隠蔽している。これは僕もこれまで何度か書いたように、その通りだと思う。前世紀の末からの、いわゆる新自由主義という市場経済至上主義、なんでもありの拝金主義が蔓延して、国家の公的責任がなし崩しに薄まってしまった。
このような社会のなかで、個人が倫理に基づいて上記のような発言をしても、「すぐに結果が出せないのであれば『そんなことをしても仕方がない』と言い出す人が必ずといっていいほど出て」くる。それこそが「私たちを飼い慣らすこの社会の思ううつぼ」なのである。そして、そうしたあきらめはやがて「『何もおかしくはない』などとウソを」(P.187)つかせるようになる。
かくして「どうせ〜なんだから」という逃げ口上と共に、「わたし(と親しい人たち)の生活さえまもられればよいといった、この社会や他者【著者はこの言葉に特殊な意味を持たせて使っている】に対する無関心な態度が醸成されていくこと」(P.198)になる。
この本の中でハッとさせられたのは、「『あるべき社会とは何かを問うこと』と『自分(とその身内)の暮らしを守る事』を天秤にかけること自体が正義の原理にかなっていない」(204)と言う言葉である。倫理という「侵さざる掟」のもとでぼくらは日常の生活を送っているのである。たとえ普段意識しなくても、倫理という掟がなければ「社会は人間のただの寄せ集めにすぎず、お互いが孤立した存在になってしまう」(P.12) のである。
(ふと連想したのが、憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という言葉。これは実際に「健康で文化的な最低限度の生活」がどのようなものかの規定がないし、ある意味では何でもありのユルフン規定、鵺みたいなものだから、ダメだという人がいる。あるいは憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という文言を考えても良いかもしれない。そんなの無理だ、理想論だ、できないことを書いても意味がない、といってそうしたあるべき姿(=理想型=倫理の掟)を捨ててしまったら、人間はどんどん低劣になっていくだろう。)
この本は、こうした視点から、障害者問題に関連したかなり具体的な提言から、経済至上主義や現在の安倍政権下の社会に対する批判まで含めて、とても有意義な本だと思うし、どういう立ち位置で僕らが社会を見るべきかを考えるとき、これは一つの有効な提案になると思う。

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