1975年、このプラ・ルー(ずっとプラ・ループと言ってましたが、Loup 『ルー』というのは「狼」の事らしいです。Forvo でもプラ・ルーと発音していますね)はメルクス時代の終焉を告げる峠となりました。
1969年、ツールに初出場するや、二位のパンジョンに約18分の大差で優勝するとともに山岳賞もポイント賞も独り占め。翌年もズーテメルクに約13分の大差をつけて連覇。翌71年はオカーニャにあわやと思われるも、やっぱりズーテメルクに約10分の差で優勝。72年はジモンディに約10分差で4連覇。73年は最初から不参加でしたが、74年はプリドールに8分以上の差で5勝目。
しかも75年も、このプラ・ルーゴールの第15ステージまで総合トップでした。ただ、前日のゴール直前に観客から右下腹にパンチを受けていたのが利いたのだという説もありますが、このステージでテヴネに逆転されると、その次のステージでもテヴネに引き離された上、さらにその次のスタートまえのパレード走行中に落車して顎の骨を折ってしまいます。結局テヴネに3分弱の差でこの年2位になると、翌76年の不出場をはさんで、77年は12分以上遅れの総合6位に終わり、翌年の春先に引退してしまいます。つまりツールに限れば、このプラ・ルーがメルクス終焉の地というわけです。
ただ、この第15ステージ、プラ・ルーの前に、今年と同じくアロス峠を越えていったんですが、この峠のトップ通過はメルクス。テヴネは10秒遅れて通過しています。さらに下りの速さはサガン並みだったようで、先導バイクに向かって「どけっ!」と怒鳴り、荒れた路面ではブレーキレバーに指を触れることもなく、軽くジャンプして走り抜けていったそうです。
この時のアロス峠の下りではジモンディのサポートカーが崖から転落して、運転していた監督とメカニックは九死に一生を得るような事故を起こしています。
いずれにしても、メルクスはこの下りだけでテヴネに対して2分近い差を付けて、プラ・ルーの登りに入るんですが、登り口では2分のリードが、途中で追い抜かれると、ゴール地点では2分近く遅れてテヴネにマイヨ・ジョーヌを奪われてしまいます。6キロの距離を4分も余分にかかったわけで、大ブレーキ。その原因が前日の観客のパンチによるものなのか、それともハンガーノックでも起こしたのか、あるいは別の原因があったのか、それは何とも言えないですね。
結局、メルクスがマイヨ・ジョーヌを着たのはこのステージが最後ということになったのでした。
さて、
先のドゥフィネでもこのプラ・ルーゴールのステージがあり 、途中メルクスがテヴネに抜かれたところでしょうか??アーチが立っていて、人食い鬼をやっつけたテヴネと書かれていました。あのときはカメラもスルーしていったけど、本番ではきっと当時のビデオなんかも流れることでしょう。
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト
trackbackURL:http://tatsuya1956.blog48.fc2.com/tb.php/2263-bb599d11