あれはたしか中学1年だったと思うんだけどなぁ。夏休み。僕は当時練馬区立北町中学のバスケットボール部に所属してました。バスケ部を選んだのは、背が低かったんですよ。小学校時代は背の順に並ぶと常に前から3番目以内。それで背の高くなりそうなスポーツを選んだわけ。バレーボールじゃなくてバスケットボールだったのは、単にユニフォームがバレーより格好良かったからにすぎませぬ。当時としてはあまり知られていない、とてもハイカラなスポーツでした。
夏休みの練習がちょうどなかった日、ぼんやりとTVを見ていた(んだと思う)ら、ちょうど高校野球の決勝戦でした。青森三沢高校対松山商業。それまでに高校野球を見たという記憶は全くありませんね。プロ野球にもまだ興味はなかった頃です。ただ、昭和40年代はじめですから、学校から帰れば近くにいくらでもあった草っ原に集まり、三角ベースの野球は毎日のようにやってましたね。つまりこの当時の僕らにとって、野球はやるもので見るものではなかったわけです。だから、高校野球を見るなんてホントに偶然だったんでしょう。
この決勝戦を最初から見ていたのか、それとも途中から見たのか、それもはっきりしません。0対0のまま延長戦に突入し、目が離せなくなりました。アナウンサーと解説者が、さかんに三沢高校のピッチャーの太田幸司は学年でトップを争う秀才だと持ち上げていました。ロシア人とのハーフだったんですよね。三沢は米軍基地の町なのにロシア人とのハーフ?書きながら変だと今はじめて気がつきました。いずれにしても、太田幸司のかっこうよさと、松山商業が名門で何度か優勝しているのに対して、三沢は初出場だということから、やはり三沢高校を応援していましたね、単純、わたしってば。
絶対取れっこないようなファールフライを太田幸司がマウンドから1塁側へむかって全力で走って捕ろうとし、それに対して解説者がえらく褒めていたのが記憶にありますね。大学野球だったら、あんなの捕れっこないっていって最初から追いかけもしませんよって言って。そのとき始めて大学でも野球ってあるってことを知ったのでした。
延長になって確か三沢高校が満塁になって、しかもカウントが2-3かなんかになったんですよね。松商絶体絶命。でも結局点数が入らず、延長18回で引き分け再試合になったのでした。三沢には投手が太田幸司しかいないけど、松山商業にはもう一人いるとかいう解説者の言葉は記憶にあり、ああ、じゃあ明日は三沢高校が負けだな、と思ったはずです。いずれにしろ、終わってしばらくなにか呆然としていたような記憶があります。
再試合は翌日で、こちらは実はバスケの練習で見ることができませんでした。練習が終わって帰る頃に、誰がどこで聞いてきたのか、三沢高校が負けたというニュースを伝えてくれました。がっかりしたはずだけど、ホントのところはその時どんな気分だったかは、あまり覚えていません。
ただ、これにより、以後TVで野球をよく見るようになりました。翌年、太田幸司が近鉄に入り、オールスターにファン投票で選ばれて出場したのは見たような気がします。
昔の記憶をたどれば、いろんなことが思い出せるだろうと思いつつも、後付けの記憶や無意識のうちにねつ造された記憶がたくさんあるもんだから、どれが本当の僕の記憶なのかわからないです。できるだけ資料は見ずに、記憶だけに頼ってみようと始めたこのシリーズですので、間違いはご容赦ください、あるいは、どうぞご遠慮なくご指摘ください。
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