ヒトラーが台頭していく時代のドイツにいたアメリカの記者や特派員や大使館関係者たちによる膨大な資料をもとにして描かれた本。第一次大戦後からアメリカが参戦するまでを時系列で、部外者のアメリカ人達がナチスを、またヒトラーをどのように見たかが描かれる。
最初からヒトラーをうさんくさい小物、教養のない狂人と見た者や、ヒトラーに魅了されてナチスの宣伝をする者もいる。ただ、みんな親切で清潔で倫理的かつ礼儀正しく効率的なドイツ人への信頼感を持っている。そもそも忘れてはならないのは、ナチはたしかにユダヤ人を始め人種差別を露骨に政策の前面に出した政党だが、当時のアメリカではユダヤ人や黒人は同様に差別されていたということだ。ヒトラーがアメリカのネイティブアメリカンに対する移住政策を讃えていたのは有名な話である。
おかげで、例えば、ユダヤ系のアメリカ人記者が第一次世界大戦が終わって、ドイツに二年滞在した時に、反ユダヤ的な運動など見たことがなかった、少なくともどの時代のアメリカよりも少なかったと言ったり、1936年のベルリンオリンピックでアメリカの黒人選手たちはドイツで人気者になり、「ドイツではつねに、礼儀正しさと思いやりを持った対応を受け」たが、アメリカでだったら「個人的な侮辱や差別を少しも受けずに過ごすことは不可能だっただろう」(p.293)と言ったりする。そのおかげでヒトラーのことを見くびったということにもなるのだろう。
読んでいて、そのまま現在の日本と重なると感じるところが多かった。例えばヒトラーについてある記者はこんなふうに書いている。
「アドルフ・ヒトラーは、自己矛盾を起こしているときでさえ、本人はいたって誠実なつもりでいたのだ。なぜなら彼はひたすら生真面目な人間であり、ただたんに、言動に一貫性をもたせる必要を感じていないだけだからだ。より知的なタイプの人間であれば、そんな状態は耐えられないだろう。」(p.156)
日本の現首相も、昨日自分でヤジはいかんと言ったのに、一晩眠れば自ら野党の質問者をヤジる。安保法案の審議でも言ってることが滅茶苦茶で、海外派兵はしないといった舌の根も乾かぬうちに、近隣国の領海でアメリカの船が攻撃されれば日本が反撃したり、敵基地を攻撃する可能性も否定しない。まさに自己矛盾を起こしていて、普通に知能があれば、こんな状態は耐えられないはずだ。
あるいはヒンデンブルク大統領が死んでヒトラーが全権を掌握したことを承認する国民投票が行われるという茶番に対するこんな文章。
普通の国では投票者が対立する候補者のなかからひとりを選ぶものだが、「ドイツでは、ヒトラーがみずから大統領となり、それは法律でさだめられたことだという。そしてそのあとで、国民が投票をする。彼らがその法律を認めようが認めまいが関係ない。もし彼らが認めるなら、それはつまりヒトラーは大統領だということになり、たとえ認めなくとも、やはりヒトラーは大統領なのだ」(249)
憲法9条があるのに、海外派兵できる法律を作ってしまってから、憲法を改正しようとする現在の動き。憲法が改正しようがしまいが、海外派兵できるというわけである。
そして、ナチ党が掲げる仰々しい目的に対して、市民は本心では無関心だという指摘も、なにか現在の日本の状況を写しているような話だ。
あるいはこんな文章はどうだろう? 「未来の独裁者が、主権者たる国民に対し、自らの権利を投票によって放棄せよと説得しようと目論んでいるのだ。」(p.104)
僕などはこの文章を読みながら大阪の橋下のことを思い浮かべた。
アメリカの筋金入りの反ナチのヴェテラン記者も、戦争が始まろうかというときになってもヒトラーは侵略戦争など仕掛けるはずがないと信じ切ってしまう。まさに人は自分が願っていることを信じるというわけである。原発事故など起こらないと信じ続けてきた、そして今もまだ第二の事故など起きないと信じている専門家の姿を思い浮かべざるを得ない。
あるいはナチを支持する若者たちの「思考にはうんざりだ。思考なんてしてもなにもはじまらない。総統ご自身が、真のナチは血で考えるとおっしゃっている」(p.155)なんていう言葉は今の日本の反知性主義にそのまま重なる。
むろん序文の表題になっているように、後の時代から当時を振り返ることはたいへんな「贅沢」である。目の前で起こっていることの意味をしっかりと把握することは難しい。だからこそ、僕らは過去の歴史を教訓としなければならない。
最後に「本書を読んでくれた日本の皆さんへ」というあとがきがあって、そこで著者のナゴルスキは強烈に現在の日本を批判している。ちょっと長いが引用して起きたい。
「本書を手にとって下さった読者の方々にはご自身で、そこに現代にも当てはまる、より一般的な教訓があるかどうかを判断していただければと思う。そしてもし教訓があるとするならば、そこには全ての人々に共通する人間性が垣間見えてはいないだろうか — あるいはひょっとすると、かつてナチスドイツと同盟を組み、同国に劣らず、軍事力による領土の獲得と、「劣った」人種と国民の支配へと突き進んだ日本と、とくに似通った点がありはしないだろうか。
日本のみなさんはこうした疑問に対して、他の国のだれよりも深い見識を持っているはずだ。しかし実際にそうであるかどうかについては疑問を呈したくなる大きな理由がある。破滅的な被害をもたらした第二次世界大戦の悲劇から長い年月が過ぎた今、日本社会はドイツ社会に比べて、戦時中にみずからが行った行為の厳しい現実に向き合うことに対し、はるかに消極的だ。あの時代の現実から学ぶよりも、それを否定しようとする動きが、また中国や韓国などの国で日本軍が行ったひどい行いを軽く見ようとする動きが、いまもあまりに多く見受けられる。」(p.484-5)

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