さて、始まってますね。パリ〜ルーベ。みんながクリストフに注目でしょうし、デーゲンコルプやサガンも虎視眈々、ウィギンズがどう動くか、またルーランツやファン・アーフェルマートがどう動くのか、いろいろ気になります。気持ちはデーゲに優勝して欲しいけど、なんとなく、またまたスプリンターたちの間隙を縫ってテルピーの逃げが成功する、という予感が降りてきました 笑)
さて、今日は次女とタンデムサイクリング。走りながら、昨夜読み終えたこの小説のことを考えていた。
この作者の前作の「掏摸(スリ)」は、最後の、どう考えたって不可能だろうというものを掏るトリックに呆れた。ものすごい!と思った。そして、繰り返し現れる塔の描写が、なにか神のイメージのような気がした。だけど途中のエピソードになにか物足りなさを感じなくもなかった。
今回の「教団X」、600ページ近くあるけど、なにしろ途中は、川上ソウクン(大昔のポルノ小説作家)も裸で逃げ出すだろう、ってぐらいのところもあって、あっという間に読み終えたという感じがしている 笑)ただ、川上ソウクンの時代のポルノってもっと比喩的暗示的間接的な表現だったのに、今はこういう描写って余りに露骨で直截すぎじゃない? そしてこの直截すぎという面、ここに出てくる社会批判にも通じているような気がする。
中村文則はドストエフスキーが好きだということだけど、確かに神や悪という形而上学的な話で引っ張ったり、途中の登場人物の実存的不安とでもいうのか、なにか自分が自分でないかのような告白に、「カラマーゾフ」のイワンの「大審問官」や「白痴」のイッポリートやムイシキン侯爵の告白を思い出させるようなものがある。そして、なにより最後の大団円的な終わり方がドストエフスキーの長編のように感じられた。こちらの思い込みかもしれないけど。
昔の小説だけど、同じくドストエフスキーに影響されていた高橋和巳という小説家の作品に「邪宗門」という長編があった。戦前に飢餓に苦しみ、子供も餓死させた女が教祖として立ち上げた宗派が戦中の治安維持法などで徹底的に弾圧され、戦後に武力革命を目指して滅んでいくというような内容だったけど、読んだのはなにしろもう30年以上昔のことだから、あまりはっきりと覚えているわけではないし、今回の中村の小説と比べることはできないんだけど、読み終わったときの衝撃で言うと、高橋和巳の圧勝。まあ、読んだときのこちらの年齢も違うしね。
現在の右傾化した日本社会に対する作中人物の批判は、たぶん作者の思いそのままなんだろうし、その内容に僕もほとんど完全に同意する。だけど、右傾化している社会をむきだしで批判するのは小説としてどうなんだろう? 例えば初期の大江健三郎(前作「掏摸」は大江健三郎賞を取っている)の小説なんかを思い出してみると、直接的、具体的な反権力の言葉はないのに、読み終わってなにか感覚的に大江の社会に対する「否」の思いが伝わってきた。それに対して、この小説では社会に対する「否」が真っ正面から具体的に語られ、説明しすぎ、わかりやすすぎのような気がする。
仏教的な無常観に最新の素粒子の話をからめた松尾正太郎の教義、「人間とは過去から現在の膨大な原子の絶え間ない流れの中に浮かぶ物語」で、「私」という意識は熱量もエネルギー量もないから物理学の法則の埒外、違う層にいるという説などは、以前ここでも紹介した
「宇宙は本当にひとつなのか」や
「宇宙が始まる前にはなにがあったのか?」を読んでいると、よくわかるし面白く読めた。そこにさらに人間がなぜ生きているのかの答えとして、我々は我々の物語を生きるために生きているのだ、という説も、文学者として当然のあっぱれな解答だと思う。さらに、我々は物語の行為者であると同時に、それを観る観客であって、それゆえ我々は生きている限り(=意識がある限り)その自分たちの物語を見届けなければならないという人生の肯定につながるところなんかも、ドストエフスキー的。
それに対して沢渡の邪淫の宗教は、つまるところ、現在の社会が陥っている「気持ちよさ」がキーなのかな? 性の「気持ちよさ」がニッポン万歳という「気持ちよさ」と重なるのだろうか? ただ、教祖の松尾正太郎もエッチな爺さんだから、性を否定しているわけでは、もちろん、ないんだろうけど。

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