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ギッタ・セレニー「人間の暗闇」など(完全ネタバレ)

2015.01.29.19:02


人間の暗闇―ナチ絶滅収容所長との対話人間の暗闇―ナチ絶滅収容所長との対話
(2005/12/06)
ギッタ・セレニー

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以前ここに書いたリテルの「慈しみの女神たち」のせいで、去年の後半からこのところずっと、こんな本ばかり何冊も読んだ。絶滅収容所トレブリンカの所長だった男のインタビューである。9時間になんなんとするドキュメンタリー映画「ショアー」を見たことがあれば、その中で出てきたトレブリンカの看守だった男や、生き延びた(脱走した)ユダヤ人が、ここでも証人として何人か出てくるのに気が付く。


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不明

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昔、「ショアー」を見たときには絶滅収容所と強制収容所の違いを知らなかったし、そういう意味ではリアリティが足りなかった(それでも十分圧倒されたけど)。ナチスの収容所というと、一昨日解放70周年式典があったアウシュヴィッツが有名だけど、実は絶滅収容所というのはポーランドにあった4つだけだった(ヴィキで絶滅収容所を検索すると6つになっているけど、ここではこの本に従います)。この4つは完全に人間を抹殺するための施設で、普通の強制収容所・労働収容所(こちらはドイツ国内だけでも10以上あった)とは目指すところが全く違っている。一般に強制収容所を生き延びた人々というのは、後者の強制収容所を生き延びた人たちがほとんどで、絶滅収容所を生き延びた人は数えるほどしかいない。

そのうちのアウシュヴィッツ第二収容所のビルケナウだけが残っていて、他の三つはすべて短期間の稼働で数十万から百万単位でユダヤ人を「処分」したあと、施設すべてを破壊して証拠を隠滅(トレブリンカなどは破壊した跡地に植林して完全にわからなくした)してしまった。そして「絶滅」とあるだけに、生存者数もいわゆる通常の強制収容所に比べて、けた外れに少ない。トレブリンカでは100人いない。

この本のインタビュアーのセレニー女史は元トレブリンカの所長で、この時点(1972年)で終身刑で西ドイツの刑務所に収監されていたシュタングルに、のべ70時間のインタビューを行った。それによって「人間の悪というもののどこまでが遺伝的なのか、また、どこまでが社会や環境の影響に規定されるものなのかを考える手がかり」が得られるのではないかと考えたと、序文で述べている。

彼女の見立てではシュタングル元所長には二面性があるという。それは本来は誠実な善良な人間であったはずの彼が、過酷な役割を果たさねばならず、そうしたなかで自分が生き残るために発達させた二つの人格だという。

そしてその二つの人格のせめぎ合いが、このインタビューの中にしばしば現れる。彼はくりかえし、自分の意志でやったことにはなんら疚しさを感じないという。確かに元看守や生き残ったユダヤ人たちでさえ、シュタングルは収容者たちを殴ったり、鞭で打ったり、撃ち殺したりはしなかったと証言している。

「私に責任があるのは、自分が自由意志でやったことに対してだけだ。それは神のまえに誓って責任をとるよ。でも、自分の自由意志からしたことではないことに、責任はない。自分に機会が与えられれば、いつだって人間的な行いはやってきた。」(p. 277)

これは有名なアイヒマンもほぼ同じ論法で自らを無罪だと主張した。つまり、自分は命じられたことを誠実にやったのだ、と。彼はみずからが有能な官吏であったことを誇るかのようですらあったと言う。

そしてインタビュアーは、シュタングルが当初、自分にも責任があったと語ったときには、「つまり、彼は自らに受け入れられる形でのみ、自らの罪を認めた」(p. 29)と考える。インタビューは幼年時代から始まり、障害者の安楽死計画から絶滅収容所の所長を経て、敗戦後のイタリアでのカトリックの司祭の助けを経て、南米への逃走、さらに逮捕されて西ドイツに送られ、裁判で終身刑を受けるまでが語られ、最後の最後、これでインタビューが終わりだという最後の時に、彼の二つの人格が交互に現れる。突然知的障害者に対するひどい差別的な言葉を発したかと思うと、三十分という長い沈黙のあとで、ついにシュタングルは「確かに私はあそこにいた。つまり、事実としては私にも罪があった」と認めるに至る。

そして、あのような巨大な罪を認めても人は生きていけるのだろうか、というシュタングルが収監されていた西ドイツの刑務所のある看守が言った言葉を証明するかのように、シュタングルはこの最後のインタビューの翌日心筋梗塞で死ぬのである。

なんか、キリスト教の信仰に根ざした、悪党が改悛する感動的な小説、例えばラーゲルクヴィストの「バラバ」を読み終えたときのような感動を覚えたが、なにしろ数十万から百万の人間を殺した施設の責任者である。殺された無名の人々のことを思えば、感動して良いのか、なんとも居心地が悪い。


バラバ (岩波文庫)バラバ (岩波文庫)
(1975/12/16)
ラーゲルクヴィスト

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例えば、今回まとめて読んだ中にアウシュヴィッツ収容所の所長だったルドルフ・ヘスが戦犯として絞首刑になる直前に書いた回想録と、それに基づいたロベール・メルルの「死はわが職業」という小説がある。


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(1999/08/10)
ルドルフ・ヘス

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死はわが職業 (1957年)死はわが職業 (1957年)
(1957)
ロベール・メルル

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メルルの小説はすでに絶版で、地元の公立図書館で他地区の図書館から取り寄せてもらったが、東京の公立図書館では3,4冊しか残っていなかった。でも、最後のシーンなどとても感動的だった。ただ、この小説では大量殺人の責任者になった人物の人間性に、ある種のつじつま合わせというか、解釈を施している。たとえば、歩数にこだわる偏執狂的な性格や、回りの空気を読まず、任された仕事は徹底して、誠実に(がむしゃらにと言うべきか)行うという義務感の異常な強さ。あるいは、ヒムラーに対する絶対的な服従心や、女性への欲望の欠如は、強権的な家父長としての父親に対する強いコンプレックスが原因だと暗示される。妻を愛していると言いながら、カミュの「異邦人」の主人公のような冷たさがある人物でもある。生まれついての性格と、成長過程での出来事が様々に組み合わさって、アウシュヴィッツの所長になったと解釈されているわけである。

だけど、実際のヘスはそんな特別な人間ではなかった。無責任にアウシュヴィッツへ大量のユダヤ人を送り込んできて処理せよと迫る上司、無能な部下、物品の不足、送り込まれてくるユダヤ人たちの悲惨さに対する嫌悪感。そんななかで任された仕事を徹底的に誠実に行った彼が、死を前にしてこう言う。

「入り組み絡み合ってゆく人間の運命の足取りを、誰が予見できるだろう。正しいとは何か、誤りとは何のことなのか?」 (「アウシュヴィッツ収容所」p. 44-5)

ただし、シュタングルとは違って、彼は戦争前にもナチの党員として密告者を殺して刑務所に入っているし、所長時代には囚人を射殺している。あるいは逃亡中にも反抗的な兵士を撃ち殺してもいるが、粗暴というわけではなく、ただただ、与えられた使命を誠実に着実に、そして徹底的に果たそうとした役人にすぎない。でも、シュタングルほど「自由意志でやったことに対して疚しいところは全くない」とまでは言えない。

「人間の暗闇」に戻るが、セレニーが序文で発した疑問、「人間の悪というもののどこまでが遺伝的なのか、また、どこまでが社会や環境の影響に規定されるものなのか」という疑問の答えは結局でない。最後に彼女は、「個別性は、偶然の生まれつきにのみ基づいている」わけではないし、「生後にどの程度まで自由に個性を伸ばせたのか」だけの問題でもない、「人間がそれまでに被った影響をコントロールして、さらにいっそう高い道徳的な決断をするためには、何が必要であるのか」(p. 451)は、わからないと書く。

確かにそうなのだ。しかし、それをおいても、シュタングルの立場に置かれたとき、どれだけの人が良心に従って倫理的に振る舞えるのだろう? 自分の仕事を拒否すれば、場合によっては、強制収容所に送られたり、最悪処刑されることすらあったのである。(p. 149参照)

一方で生き残ったユダヤ人たちも「堕落」していた。つまり「誰かが殺されることは、逆に誰かが生き残ることを意味していた」(p. 144) だから、自分が生き延びるためには何だってせざるを得なかった。しかし立場は全く違うが、ここでもシュタングルと同じことが言えないだろうか? つまり、このように死の恐怖にさらされながら、どれだけのユダヤ人が良心に従って倫理的に振る舞えたのだろう?

むろん有名なコルベ神父のような例もいくつもあったのだろう。だけど、(思いっきり連想が真逆に飛ぶけど)東部戦線でナチス親衛隊の虐殺部隊に所属し、罪悪感から自殺した兵士も何人もいたと言われている。良心に従って倫理的に振る舞える(あるいは良心の呵責に耐えかねて自らの命を絶つ)少数の人と、そうではない大多数の人(僕なども絶対こちらだ)との差はなんなのかはわからない。

この本でははっきりとは言っていないが、この原因を信仰心に求めようと考える人もいるかもしれない。よい意味でも悪い意味でも、死をも厭わない信仰心。上記のコルベ神父だってカトリックの司祭だ。だけど、この本ではその説を単純に受け入れさせないための先手を打っているかのように、当時のカトリック教会の役割も語られている。当時の教皇ピウス十二世(自転車レースが大好きでバルタリのファンだったことでも有名)をはじめ、当時のナチ高官の逃亡を手引きした神父たちの話も出てくる。ユダヤ人が大量に虐殺されていることを、明らかに知らされていながら、知らんぷりをしたのである。その原因をかなり同情的に挙げてはいるが、いずれにしてもいわゆる教皇庁の不作為として非難されるべきところだろう。

これに関連してカトリック教会がナチの戦犯を逃亡させるのに一役買ったことを告発するこんな映画もある。なんともやりきれない結末の映画だけど、できはすごく良いと思う。


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マチュー・カソビッツ、ウルリッヒ・トゥクール 他

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話を戻すが、この本は二つの解決がつかないテーマをめぐっている。一つは上にかいたように、果たして遺伝や経験・環境で人はどのぐらい変わるのか。それも死を目前にした極端な場で高い倫理意識を発揮できるような人格は、この遺伝や経験・環境以外に何が必要なのか? そして、すでに書いたように、この質問に対する解答はない。

ただ、ここから言えることは、だからこそ、そのような極端な場に置かれることがないような社会を作らなくてはならない、としか言いようがない。そのような極端な場に置かれなければ、人はこんなひどい加害行為はしなくてすむだろうし、こんなひどい被害も受けないだろう。

もうひとつのテーマは、「法律で問われるのは、いつも一個人としてのその時々の対個人的な行動であり、それに対する責任だけだという論理だ。(これは)世界中の法律にとっても一定の基準となり、すべての人間行動の評価基準とすらなっている。つまり、ある社会のなかで評価されるのは、その人物の個々の具体的な行動であって、その人が何を考え感じ、どう生きたか — すなわちその人自身のあり方なのではない。」(p. 135) 法律では内面は裁けないということである。これは良心の問題だ。そして最後にシュタングルが自らの罪を認めたことで、彼が良心の問題として自分の過去と向き合ったと言うことなんだろう。命令だったから、という理由で思考停止してしまったアイヒマンを「凡庸な悪」と、ハンナ・アレントは言ったそうだが、法的に罪を追求できない場合、人はどこまで自らの責任を認められるのだろう?

2015年2月1日、加筆修正しました。



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アンコウ

アンコウ
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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと「努力」しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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