ゲシュケのダウン・アンダー日記を読みに拙ブログを訪れて下さった方の中にも、きっと死刑制度はあったほうがいいよね、と考えている方がたくさんいるだろうと思う。ただ、それはどこまで深く考えた末のことなのだろうか? 殺人事件があると、犯人がいかに凶悪かを煽るTVやその他のマスコミの話を丸呑みしているだけではないのか? しかし、袴田事件のときも、当時の新聞で、袴田さんはいかに凶悪で野蛮なボクサー崩れであるかが強調されていた。
この数日、表現の自由について書いた拙ブログにコメントをくれた方との話で、どういうわけか、ついで程度に死刑制度には反対だと書いたら、それに食いついてきて、ものすごい剣幕でおまえの身内が殺害(二度目の文言は「あなたの娘さんを凌辱殺害さらにあなたを含む一族を根絶やしに」 笑)されて犯人が全く反省もしていなくても死刑に反対できるんだな、とすごまれた。死刑賛成派の中にはこういう人がとても多いように感じる。数年前にも酒の席で僕は死刑制度に反対ですと何気なく言ったら、向かいに座っていた人が、やはりものすごい剣幕で同じようなことを言ってきたことがあった。
なぜなんだろう、死刑制度に反対すると、当事者でもないくせに異常に激高する人がいるのは? それも結構多いような気がする。まるで、「死刑制度に反対だぁ?? じゃあオレがおまえの身内を殺してやる」、とでも言わんばかりの剣幕。
前にも書いたことがあるけど、当事者になれば犯人を殺してやりたいほど憎むのは当たり前だ。それは万が一僕が当事者になった場合でも同じだ。犯人をこの手で殺したいほど憎むだろう。なんだ、ダブルスタンダードじゃないか!という声がすでに聞こえてくるね。でも、当事者でもない人がなぜあんなに他人の憎しみを共有したがるんだろう? また、死刑制度の話になると、こういう極端な話にしたがるのはなぜなんだろう? 殺人事件は年間約340件(無理心中で生き残ったケースも含む)。本当はもっと多いという人もいるけど、死刑をとっくに廃止したヨーロッパ諸国などと比べても低い数値だろう。
結局、みんなは、まれにある凶悪事件を映画のように見ているのではないだろうか? 前にも書いたけど、ダーティー・ハリーみたいに、悪い奴はあくまでも骨の髄まで悪党で、最後は撃ち殺されて、ざまあみろ、ああ、スカッとした、というのと同じ気持ちで現実の世界を見ているのではないだろうか? ダーティー・ハリーならそこで幕だけど、現実の世界はまだまだ続くんだよ。当事者にしてみれば、犯人が死刑になったって、悲しみは一生消えないだろう。(だから死刑なんて必要ないという論法ではないので、念のため)死刑賛成というひとは悪いヤツが死ねばそれで終わりだろうけど、当事者にとってはそうじゃない。
「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、わたしの妻と娘、そして被告人も犬死にです」
もう一度この本村さんの言葉を思い出しておきたい。死刑制度については過去に何度も繰り返してきたので、興味のある方は以下のリンク先の過去記事を、是非読んでみて下さい。
死刑制度について光市事件、死刑確定に思うこと再び本村さんの言葉を考える再び本村さんの言葉を考える つづきあれから一年
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