先日の Maderna さんのコメントから知った「Arisanのノート」というブログの現代日本社会の分析には感服しました。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20141208/p1#cたとえばヨーロッパの歴史をちょっとでも見れば、大昔から散々ひどいことをしてきたわけで、そうした前近代的で貧しい時代を超えて、19世紀には教育や技術の進歩によって、少しずつではあっても、人々が賢く文化的な生活を送れるようになってきた。そして、次の世紀はよりヒューマンな世界になると期待に胸躍らせていたら二度の世界戦争。ファシズムやスターリニズムのおかげで、めまいがするような数の大量虐殺を経験する。つまりヨーロッパ社会は文化程度が高くなったりしたからといって人間は何するか分からないということを実感したわけです。
上記の「Arisanのノート」の文章を借りれば、「イタリアとドイツは、共にファシズム体制を経験したが、前者は大戦末期に大衆自身がムッソリーニ体制にけりをつけ、後者は戦後に長い時間をかけて、そこからの脱却を果たしてきた」のです。
翻って、日本は?太平洋戦争で300万人以上も死んで、それでも責任をとるべき人間がとらず、一億総懺悔なんていって、本当に懺悔すべきなのにベロ出して戦後にも要職に就いていた人間がたくさんいたわけです。
日本という国がファシズム(あの時代の日本をファシズムの時代とするのが妥当なのかどうかはとりあえず置く)を克服し切れていない以上、ファシズムをもう一度経験してひどい目に合って、今度こそやり直さなきゃ駄目なのかもしれません。
ヒトラーは「民主主義は無責任なシステムだ」と言って独裁制を主張し、個人の人権以上に国家への服従、指導者(フューラー)への服従を強いたたわけですが、戦後になってヨーロッパはヒトラーの言う通りにやったらどうなったかを骨身にしみて理解したわけで、それに対して日本はどうやら骨身にしみたというわけには行かなかったのかもしれません。
なにしろ、少し前に橋下がヒトラーが言ったのと寸分違わぬ上記の台詞を胸を張って言っていましたからね。そして、それを大した批判もなく受け入れてしまうこの社会のおぞましさ。
日本国憲法第12条にはこうあります。
この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。
憲法は権力を縛るものですが、この条文では、国民に向けて、「不断の努力」を要求しています。人権というのは不断の努力を必要とするものなのでしょう。昔この条文を初めて読んだときには、意味がよく分からなかったんですが、今のような時代になってみるとよくわかります。「不断の努力」を放棄して権力におまかせにしてはいけないということです。

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