いやぁ、コスタリカ、勝ちましたね。今朝起きていつものEテレにしたら放送中で、つい目が離せなくなり、仕事に遅れそうになりました。ギリシャにも勝たせてやりたかったけど、ここは憲法9条を体現している国、軍隊のない国コスタリカを応援! でしょう。
さて、すでに一週間過ぎてしまいましたが、23日は沖縄の慰霊の日でした。すでに何度か書いているように、わたしの義母はひめゆりの生き残り。連れ合いは東京生まれだけど100%沖縄の血です。1995年だったと思いますが、平和の礎(いしじ)の除幕があったときに、前年になくなった義父の代わりに参列しました。義父の家族全員と、他にも親類が何人も名前を刻まれていました。当時は23万人あまりと言われていましたが、今年はその数字が24万あまりとなっています。平和の礎というのは、沖縄戦で亡くなった人の名前を、職業や国籍に関わりなく刻み込んである石の屏風状の墓碑銘です。毎年亡くなった人が判明して、刻まれる名前も増えているようです。
というわけで、表題はその沖縄集団自決裁判に関する曽野綾子の卑劣な役割と、虐殺部隊の責任者たちを擁護する「ある神話の背景」という書物のいい加減さを徹底的に批判している山崎行太郎と佐高信の対談本です。ただ、曽野の批判はそれほど多くないし、
その批判も以前紹介した山崎のブログで書かれていることで、むしろここでの批判は保守派にせよ左翼にせよ、お互いに仲間内だけで内向きになっていて、論争がない。結局どちらを信用するかという話になっているという話がメインです。その点で、
これまた以前紹介した山崎の「保守論壇亡国論」の続編という感じでしょうか。
つまり、保守にせよ左翼にせよ、論客たちが見事にイデオロギー的な立場からものを言うようになっていて、お互いに仲間内で仲良しクラブになり、「仲間同士でつるんで、自分たちと同じような主張をしている本を読んで気持ちよくなっているだけ」(23頁)だ、というわけです。
たしかに社会はイデオロギー化しています。敵と味方に分けてレッテルを貼り、分かりやすくしたがっているようです。政治家も、昔なら自民党の宮沢喜一首相が「社会党との対話」という本を出したりしたわけで、55年体制というのが実は自民と社会のナアナアな馴れ合い的な面があったのかもしれませんが、今は安倍は自分を右翼と定義し、自分を批判するものを左翼と言って、相手の批判に耳を貸そうともしませんからね。
というわけで、曽野綾子に戻れば、ぼくは曽野綾子の本は読んだことがないけど、彼女が書いたいい加減な本が影響力を持つような世の中は、やっぱりかなり劣化した世の中だと思うわけです。おそらくここで、あるいはそのブログで山崎が書いている曽野綾子批判に対して、曽野は反論せずに無視を決め込むことは間違いないだろうと思いますが、山崎行太郎にしても佐高信にしても、これで満足せず、ずっと曽野批判を続けていって欲しいと思うところです。

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