都知事選のなかで、大騒ぎになっていた偽ベートーヴェンの話題。あんなに大騒ぎになるなんて、みんなあの人のHIROSHIMAを聞いたことあったのかな、NHKのあの番組を見たのかな、と不思議な気持ちでしたね。確かにクラシックの現代曲としては破格の売り上げだったそうです。実は私のiTuneにも入ってます。で、はい、あっけなく、騙されました 笑)
グレツキというポーランドの現代音楽の作曲家がいて、その人の交響曲にもアウシュヴィッツで死んだ少女の書き残した詩だったかを歌詞にした曲があって、こちらは初めて聞いたときに、あまりにベタなので、ちょっと違和感とまでは言えないまでも、なんか今ひとつ感動しきれない気持ちがしたものでした。だから、CDは、今見たら埃まみれです。この5,6年、聞いたことがないですね。
HIROSHIMAを聞いたときもグレツキーと同じような印象を持ったはずで、映画音楽みたいだな、と思ったはずなんですが、でも、そこに付随する作曲者の物語に、完全に感動して涙流れてました。まあ、しょうがないかな。音楽っていっても、やっぱりその周囲にある物語を知ってしまったら、それに引きずられるのは人情ってモンでござんしょう。
たとえば第二次世界大戦直前の1939年4月、復活祭の前の日曜日(棕櫚の日曜日)に演奏され、途中聴衆のすすり泣きが聞こえる(と言われている)、メンゲルベルクが指揮したバッハの「マタイ受難曲」なんて、もう絶対に音楽聞いてるんじゃないですね。滂沱の涙ですよ 笑)
あるいは、1947年5月の、戦犯容疑が晴れて、やっと指揮棒を持てたフルトヴェングラーが最初にベルリンで指揮したベートーヴェンの「運命」、もう最初から出だしがそろってなかったりするんだけどね。ジャジャジャジャーンがジジジャジャジャジャーンなんだけど、まあ、あれに感動しない人はヘンだよ。
あるいは白血病で若くして亡くなるディヌ・リパッティ、死期が近いのを知りながら、「約束だから演奏しなければ」と言って開いた最後の演奏会のレコードとか、鍵盤の獅子王なんて言われたヴィルヘルム・バックハウス、最後のコンサート。ベートーヴェンのソナタの途中で、「すいません、ちょっと休ませて下さい」と言って中断してしまうコンサート。そして、その演奏そのものはミスタッチだらけなんだけど、感動しない人はいないでしょう。
そして、その際、こうした物語の感動が、その全体の感動の何割に当たるか、なんて、わからんよね。これを音楽だけ純粋に聞いて、それだけで判断するのが、音楽に対する礼儀だろう、なんて言われたって無理です。この年になれば、いろんな経験をしてきて、そうしたものが、音楽以外の物語を肥大化させてしまいますから。
というわけで、いまこそ、あらためてHIROSHIMAを聞き直して見るべき時なんでしょうね。といっても、やっぱりそう簡単に聞こうという気にならないのは確かなんですが。。。
ただ、今回の騒動、その世間の反応と騒ぎぶりに、なにか嫌な感じがするのは、これがきっかけとなって、以前の不正な(といっても0.4%だよ)生活保護受給者バッシングのように、不正な障害者手帳受給者バッシング(問題の作曲者がほんとうに不正なのかどうかは知りませんよ)とかにつながらなければいいけど、と不安を感じるからでしょうか。
----2014, 2/14, 09:50 追記
ヴィキなどによると、ディヌ・リパッティは白血病ではなく悪性リンパ腫だったようです。訂正します。
また、なんとなく世間の騒ぎぶりに不快な気分になるのは、やっぱり、騙された当事者じゃない人たちの盛り上がり方が、どこか不安を醸し出すんです。今回の騒動で初めてこの人のことを知りました、というような人が、心底怒ってるのを見ると、こんなことに怒るなら、もっと怒りの矛先を向けるべきものがあるだろうに、と思うんです。

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