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小嵐九八郎「天のお父っとなぜに見捨てる」覚え書き

2013.12.12.00:04


天のお父っと、なぜに見捨てる天のお父っと、なぜに見捨てる
(2013/01/26)
小嵐 九八郎

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僕はものすごくおもしろく読んだけど、すでに何度か書いたように、僕の母はクリスチャンなので、聖書については小さい頃からずいぶん聞かされてきたし、一時期は田川健三の「イエスという男」とか遠藤周作のキリシタンものにずいぶん熱中したからでしょうね。ともかく、聖書についてある程度知らないと、このおもしろさはわからないでしょう。聖書の知識は絶対必要だし、できれば、この小説の最後に参考文献として載っている本の何冊かを読んでいたほうがいいでしょう。最低でも、太宰治の「駆け込み訴え」がおもしろかったという人でなければ駄目でしょうね。

例えば、秀吉や柴田勝家のことをある程度知っていなければ三谷の「清須会議」はおもしろくないでしょう? 同じことで、聖書の登場人物のイメージが全くなければ、この小説のおもしろさは全くわからないでしょう。

以下、完全にネタバレです。読んでみようかと思う人は、ご注意を。

---------------
さてさて、これほど読みづらい文章の小説は、あまり記憶にない。いうなればひとつの文に、いくつもの分詞構文の節が入れ小細工のように紛れ込んでいるような込み入った饒舌調の文。しかも会話は東北弁なのである。たとえば有名なイエスの説教はこんな感じ。

「あなた達の隣り人を愛するっち。(。。。)敵を愛すがんすよ。迫害する者のために祈るやぜえ。」(128-9ページ)

「悔い改めれば、本当に悔いて改めるならば、神は許すに決まっているっち」(366ページ)

有名なペテロの否認(バッハのマタイ受難曲では「哀れみたまえ」っていう有名なアリアになっている所)では、ペテロは「知らんけえ、知らんけえ」と言って逃げていく。マグダラのマリアは女性解放の闘士だし、イエスの母マリアはなんか怖いおばさんだ。また、4福音書のなかで最古のマルコ福音書を書いた(紀元80年頃に書いたと言われている)マルコは10歳の少年として出てくる。だから、マルコ福音書を書くのは彼が60歳ぐらいのことになるわけだ。

また、イエスの弟子(?)にはインド生まれのラーマ老人というのがいて、これが仏教的な悟りの境地を求めるようなことを言う。そのせいか、イエスもこんなことを言う。

「神って、やがて罪人になる者をも含んで産んで下さったでの。でっけえ、心と思うち」(367ページ)

いずれにしても、この小説のイエスはその2年間の活動の間に、徐々にその思想が変化していくということになっている。普通、聖書って最初から完結したもので、イエスの文言の矛盾もなにも丸ごとひとつのまとまったものだと思っているんじゃないだろうか。だからイエスの考えが変化するというのはおもしろかった。

小説は、イエスの弟子のシモンが実はサウル(パウロ)の密偵で、彼がサウル宛てに書いているイエスを中心にした宗教集団の報告と、ユダの日誌による教団の様子が交互に置かれている。そして、これはおそらく最近発見されたユダ福音書に基づいているのだろうが、イエスを銀30枚で打ったとされるユダは実はイエスに心から惚れ込み、その肉体を浄化して霊になるべき(つまり肉のままでは有限だから死んで永遠になるべき)だと考えている。

そしてこのユダはイエスの死後、残された弟子達によって粛正されたことになっている。なにより、小説のなかではユダが裏切ったのかどうかは曖昧なままである。この粛正シーンは連合赤軍やオウム真理教を彷彿とさせるものがある。そもそも、弟子同士の仲が悪く、教団としてのまとまりがなかったのだが、ユダの粛正によって、つまり裏切り者を抹殺することによって、教団は一致団結する。そして、これをすでにユダが意図していたと読めるようなところもある。

だから最後にシモンが想像するイエスの言葉、「ユダよ、辱めに死ぬっち。死んで、わたしの思いを残す絆を強めるっち。死んで、生きるっち(中略)現世の律法の神ではなく、あの世の神によってわたしを認めたユダよ、最後の裁きの時はわたしの足許にいるっち」(477ページ)は、やたら感動的である。

あちらこちらに、現代社会やイスラエルに対する批判と読めるところがたくさんあるし、中盤、イエスの無力さを示すような竜巻による大惨事は、ひょっとしたら東日本大震災の暗示かもしれない。

当時のユダヤ社会はユダヤ教の律法を後生大事にし、ユダヤ人のことだけしか考えていなかった。パリサイ派というのはユダヤ原理主義で、その律法のもとで人々はがんじがらめになって視野狭窄になっていた。これはある意味現代社会にも当てはまる。例えば次の文章などは今の日本のこと(まあ、日本に限らないけど)だろう。

「そして、気が付く、律法を、民族を、同じ信仰と習慣と感情を車輪にしてゆく楽ちんさ、受けの良さ、安易さを。つづめて言えば、愛国という人と人の紡ぎと運動の同じ価値に依拠する強さと中身の薄さだ。」(327ページ)

あるいはこんなイエスの預言。

「人の類(たぐい)は、いつか、いつか、うんや、必ず、滅びへといくっち。神を畏れぬでかい罰がくるっち。それは、おのれの欲しか考えねー時で始まるっち。人々はみな、神の作った大いなる海、土、空、草草を台無しにして、儲けの欲に突っ走り、絆のない一人の欲と欲が重なり合ってどげんにもならなくなって、罰にことごとく屈してしまうっち」(425ページ)

さらには民衆がイエスを磔にしろと騒ぎたて、死刑になると「やったあーっ、正義が勝ったあっ」と叫ぶ姿なども、そのまま今の日本だ。

最後は、それまでユダの日誌のなかで外見だけがわずかに描かれていたサウルの、イエスの教えに帰依すること(いわゆる「サウルの回心」を暗示するようなシモンへの手紙で幕を閉じる。ちなみに、一般的にはイエスの教えを「キリスト教」にしたのはサウル(パウロ)だと言われている。

----追記 2013,12/12, 07:58---
作者の小嵐九八郎って、全く知らない人だったんだけど、ちょっと調べたら新左翼の活動家だったそうです。なるほど、現代批判につながるような文言もユダの粛正なんかも、そういうところから来ているのかな。

---追記 2013, 12/19 11:00
思いつきですが、ユダがイエスを肉体から霊へ、つまり有限から無限へ変わるべきだと考えたのは、オウムの麻原が言ったポアに通じる?? 


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アンコウ

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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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